水琴窟 23

   水琴窟 23
 問 前念命終、後念即生とは
 答 善導大師の、往生礼賛の文であります。この『前念命終』を今生の命の終わりと考え、『後念即生』を来生と考えれば、往生は死後の事となります。其処から往生とは死ぬ事と考えられるようになりました。 平安時代までの浄土往生は、全く死後の往生として信仰されていました。所が、法然の浄土宗独立の宣言依って、初めて新しい浄土宗が誕生したのです。  
それまでの浄土は、凡聖同居と言われ、位の低い浄土と言われて居ました。即ち、この世では仏の覚りが開かれない愚者や弱者が、死後、阿弥陀の浄土に往生して、改めて修行して、仏の覚りに到達すると云う、愚悪の衆生の為の扶助的なものと考えられていたのです。  
 それに対して、法然は『聖道門を投げ棄てて、選んで浄土門に入れ』と勧めたのです。それは、既に、中国の道綽禅師によって『道綽決聖道難証』との決断が下されて居たからです。しかし、道綽の決断は、善導以外には取り上げられていませんでした。しかもその善導の思想も、僅か百年程しか続かず。風前の灯火の様に、中国では當に消え去る寸前でありました。その善導の教えを、『偏依善導一師』と取り上げたのが、法然であります。
 しかし、この法然の行為は、大変危険なものでありました。まもなく『八宗同心の訴訟』と言うものが発生して、既成仏教教団からの、猛烈な弾圧が始まるのです。 何故、こんなことが起こったのかと言いますと、其れだけの理由があるのです。『浄土宗興隆によって、聖道門敗退す』と言われます。確かに、浄土宗は庶民の間に、歓迎され、大繁盛を起こします。しかし、そんなものは、一時の流行で、やがて消えて行くものです。 所が、浄土宗には、一時の流行に終わらないものが有ったのです。そもそも、聖道門の人々が、なぜ浄土往生を願うようになったかを考えて見ると。聖道の修行では仏に成れないと云う事が有ったのです。それはその人間の問題であります。即ち、愚鈍の衆生であるという理由であります。ここに、聖道門の体質があります。聖道門は、智慧者でないと、厳しい修行に耐えて、成仏道を完成できないのです。   『余が如き愚鈍の者』と法然は言いました。世間からは、智者と言われていたのですが、法然自身は『愚鈍の衆生』としか言えなかったのです。それは、とても聖道門の修行では、仏の覚りが開かない身であるとの自覚であります。決して単なる謙遜ではありまん。
 その法然が、善導の教えに遇って、初めて仏道成就の道が見つかったのです。それを『遍依善導一師』と言うのです。勿論、善導一人ではありません。善導の背後に、インド以来の仏教の伝承があることが分かったのです。
 そのインド以来の伝承は、後に親鸞によって『七高僧』として詳説されますが、それを最初に発見したのは、法然の功績であります。
 法然に依る『浄土宗独立』の波紋は、穏やかに収まるものではありませんでした。長い念仏禁制との戦いの後、法然、親鸞、蓮如と受け継がれて、漸く日本の国土に根を張ることに成ります。
 さて、『前念命終、後念即生』ですが、平安時代まで、死後の往生とされてきた往生浄土の教えを、往生浄土とは、現生不退であると言う、竜樹以来の大乗仏教精神の生き方として、新しく見出した親鸞は、法然の教えを受け継いで、『前念命終』とは、人間の理性を中心とする自我の生き様を終わりとして、如来の本願を中心とした大乗仏教本来の生き様に、転換する事であると云う、往生浄土の新しい意義を見出したのであります。
 天台宗の念仏は、今生に成仏を果たせない者が、せめて来世に弥陀の本願に縋って成仏の願いを果たそうと云う、未来に夢を託す信仰であります。果たして願が叶えられるか否かは分からないのであります。
 法然・親鸞の念仏は、如来本願の力用に依って、現生に成仏の確約を得る道であり、現生不退と言う、確固たる独立者と成る生き方でありまして、未来に夢を託する希望的観測に頼る、不安定な生き方ではありません。
 愚禿抄に、『本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は後念即生なり。他力金剛心也と當に知るべし。即ち弥勒菩薩に同じ。』(14の8)と言います。
 信心決定することが前念命終であり、即得往生が後念即生であります。即得往生は信心決定の時、即得往生する事で、他力金剛心を得る、全て今生の出来事であります。
往生浄土と言うのは、今生を生きる方向を決定する事であります。我々は生きる方向を見失っていて、どちらに向かって生きれば良いのか見定める事が出来ないで、徒に右往左往している存在であります。
一切道俗もろともに
帰すべきところぞさらになき 
安楽勧帰のこころざし
鸞師ひとりさfだめたり (11の25 曇鸞和讃)
 生きる方向が定まって、真っ直ぐに胸を張って生きられる人間は独立者であります。まさに、念仏者は何物にも揺るがない独立者であり、金剛心の行者であります。
 『念仏者は無碍の一道なり』と歎異抄に在りますが、念仏者は有碍の只中を行く存在であります。決して順境の中をぬくぬくと鼻歌交じりに生きる事ではありません。むしろ、念仏など知らぬ人間の方が、呑気に生きているのでありましょう。
 人生が呑気に生きる為であれば、仏法など聞かない方が良いのであります。人生を気楽に生きて悔いなど感じない人間は、如何にも出来ない人間であります。『縁なき衆生は度し難し』であります。しかし、如来は『度し難し』と言って、横を向いて居られないのです。『無有出離之縁』の衆生の為に、『若不生者』の誓いを立てられました。
 聖道門は有縁の衆生の為の仏道であります。浄土門は無縁の衆生の為に開かれた仏道でありました。
 『仏心とは、大慈悲これなり』と言われます。無縁の大慈悲とは、正しく無縁の衆生に懸けられた大慈悲であります。無縁の大慈悲に依らねば、出離の縁の絶え果てた我々愚悪の衆生の救われる道はありません。
 しかし、その大慈悲に甘えるだけの者は、仏の救いには預かれません。所謂『恩寵の宗教』に甘えるものと言われます。大慈悲に依らねば救いの道はありませんが、その大慈悲によって、其処から立ち上がって独立者に成らねばなません。其の為には、勢至菩薩の智慧が必用なのです。
 弥陀観音大勢至と、弥陀三尊は、必ず三尊の形であります。三尊によって弥陀の救いが成就するのです。一尊が欠けても弥陀の救いは成り立たないのです。
 弥陀の救いは、『縁なき衆生は、度し難し』と言って、見捨てられていた『愚悪の衆生』を、独立者として立ち上がらせる、唯一の仏道であります。                      、  

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