水琴窟 25

   水琴窟 25
 問、慈悲と智慧の問題 (続き) 
 答、曽我先生と北森先生との対談で、曽我先生が『仏教の慈悲と言う考え方は、貴方が言われるような悲と云う事に徹しなければ本当のものに成らないでしょう』と言われたと云う事がありました。その時、『これは今思いついたことではなくて、私はもう30年も前からそのことを憶念し続けてきて居る。』更に、『善導の機の深信と『無縁の大悲』とは深く関わるものである。』と言われたと云うのです。『しかし是は曽我量深が言うのであって、他の真宗学者も仏教学者も誰も認めていない。』と。
 これに就いて北森氏は、『そういう発想が、仏教の中にあるとは思いもしなかった。』と言って大変ショックを置けたと語って居られます。
 所謂、『無有出離之縁』とは、『人間の絶望』であります。その人間の絶望が、その儘『仏の無縁の大慈悲』と云う事を証してくると云う事です。  
 『無縁』とは、本来『平等』と云う事ですが、また『縁なき衆生は度し難し。』と言う『如来の絶望』につながるものです。
 『人間の絶望』は、『如来の絶望』によってのみ見出されるものであります。人間は自ら絶望出来ないものであります。最後の最後まで夢を見続ける存在であります。
 私は、高度2000メートルから墜落しましたが、その時、下を見ると大地が湧き上がってくるのが見えました。あそこまで行けばお終いだなと思いました。それと同時に、
『まあ、何とかなるさ』と思ったのです。結局、私は助かったのですが、死んだ同僚も同じことを思ったに違いないと思います。人間は最後まで、望みを捨て得ない存在だと思います。失望はしても、絶望は為ないものなのです。  
 それ故に、如来の無縁の大慈悲に依ってのみ、衆生の『無有出離之縁』の相が照らし出されるのでありまして、その照らし出された衆生の眞相は、其の儘、如来の光明の中に摂取されるのであります。
 光明に摂取される時、『深信自身』と言って、本当の我が身に目覚めるのであります。真実のわが身に目覚めるとき、我々は、我が身を背負って立ち上がることが出来ます。摂取不捨が、独立する力と成る所以であります。それは智慧の働きであります。  
 金子大栄先生は、『大悲の智慧』と言われています。此の言葉は金子先生の造語でありますが、曽我先生が、永く『金子先生がああ言うのだが、その意味は解らない』と云っていられたそうです。所が、鈴木大拙先生が『キリスト教は、愛の宗教である、仏教は、智慧の宗教である。』と言われるのを聞いて、『智慧とは何ですか。』と問われたと言うのです。『智慧と言っても、本当は、純粋感情でしょう。純粋感情でなければ、智慧と知識とは同じ質のものに過ぎないでしょう。』と言い、『金子大栄氏が、大悲の智慧と言われたのは、妥当な言葉ですね』と言って、初めてあの言葉を認められたと云います。
 智慧と言いましても、言っている本人は、知識と同じ質のものとして意識してるなら。又、愛と言うのも愛欲と同じ意識で言っているならば、曽我先生が言う『純粋感情』とは異なるものに成るのです
 人間の主観と客観に分離した知識的な判断としてものを見る限り、智慧と言っても知識の延長線上で、如実知見ではありません。
 『純粋感情』と言うのは、『無分別智』であります。無分別智の前に於いてのみ、事実は事実として明らかに成るのです。それを『如実知見』と言います。
 私は、『純粋感情』と言われる意味が、中々判らなかったのですが、我々の感情は、全て有漏の意識によって起こる有漏の経験です。純粋感情は、無漏の経験でしょう。智慧と言うのも、有漏の経験である限り、純粋とは言われません。
 我々の有漏の経験が、如来の智慧光によって照らされて、照らし切られて『有漏の経験でありました。』と頷き、如来の前に頭を下げ切ったとき純粋感情と言われるのでしょう。
『大悲の智慧』という言葉によって、智慧の知識性を完全に払拭すると同時に、慈悲の情緒性と言うものも払拭して行くのです。其処に誕生するものが、『純粋感情』であって、人間の分別を超絶した『無分別智』の智慧と慈悲であります。
 『無縁の大悲』と言う言葉も、無分別智であるが故に、人間の絶望である『無有出離之縁』の我の実相をその儘『摂取不捨』して、『疑いなし、慮りなし、彼の願力に乗じて、定んで、往生することを得。』と言う自覚を誕生せしめるのであります。 
 中村元先生に『慈悲』と云う著作が有り、『仏教で言う『慈悲』には、『滋』と言う意味はあるけれども、『悲痛』と言う意味はない。』と言われているそうです。
 観無量寿経も、確かに『慈』を中心にした教えであります。仏の慈しみが、佛自身の位を捨てる形で、苦悩の衆生に寄り添いながら、衆生を救うと云う形をとっています。ですから『摂取不捨』と言われるのです。この『慈』を中心にした浄土教が、それを徹底していった所に、『悲』と言う問題にまで展開したのです。
 其処に『浄土宗独立』と言う問題があります。それまでの天台宗に於いても、念仏は称えられて居ました。それは聖道門の修行では仏に成れそうに無い者が、仏の慈悲に縋って浄土に往生して仏の悟りを開くと言うものでありました。正しく『仏の慈悲に縋って』悟りを開くものであります。
 法然は、その聖道門からの独立を宣言したのです。『選択本願念仏集』が、その宣言であります。法然は、『摂取』と『選択』とは同じ意味だと言いますが、『摂取』という言葉に代表されてきた仏教が、 『選択』という言葉で確認された時、慈しみが其の儘、人間的、情緒的残滓を全く残さない『仏の慈しみ』に変革したのです。
 慈悲と言う言葉には、どうしても恩寵と言う臭いが色濃く残っています。其の慈悲から恩寵と言う臭いを払拭して、如来の智慧光によって、如実知見のもとに事実を事実の如く見ていく所に、仏教は立つのです。其処に、念仏者の独立者としての生き方があります。金子先生の『大悲の智慧』と言う言葉も、そのような念仏者の生き様を顕そうとされたものでありましょう。
 遠く、平安時代から受け継がれてきた『慈しみの佛教』としての浄土教が、正しくその真性を発揮して、ここに『浄土教の独立』が宣言されたのです。我々は、仏の慈しみに依らねば救われません。しかし、負んぶに抱っこと言うよな甘い救いは、本当の救いではありません。それは人間を眠らせる悪魔の仕業であります。
 今日、宗教と言えば、殆どが、この程度の『人間を眠らせるだけ』の『負んぶに抱っこ』の宗教に成っています。正しい宗教の覚醒が叫けばれている所以であります。
 『仏の大慈悲』に依らねば救いは成り立ちませんが、その大慈悲に甘える『恩寵の宗教』では無く、厳しい『仏の智慧』に依る『独立者』と成る為の『念仏往生の道』に目ざめねばならないのでしょう。

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