水琴窟 36

水琴窟 36
 問 自性唯心に沈む。
 答 信巻別序の言葉であります。
 『然るに末代の道俗近世の宗師、自性唯心に沈んで、浄土の真証を貶し、定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し。』と言われています。
 そこで、まず『自性唯心に沈む』と言う問題を考えてみたいと思います。『自性唯心』と言う言葉は、大乗仏教の教義を顕す言葉でありますから、その大乗仏教の法に沈むと言うのです。沈むことに依って、浄土の真証を貶すと言うのです。末代の道俗は従来の仏教であり、近世の宗師は親鸞当時に新しく興って来た、禅宗や律宗や日蓮宗であります。これらの人々がこぞって法然の浄土宗を非難攻撃しているのです。それに対して『人倫の弄言を恥じず』と言い切ったのです。
 其処に、今までの仏教の信に反論を提供す訳ですから、大変な闘いであります。その緊張感が、教行信証の全体に充満しているのです。
 親鸞は、善導の玄義分序題門の言葉である『門、八萬四千に余れり』と言う文を解釈するに当たって、『門余と言うは、門は即ち、八万四千の仮門なり、余とは即ち、本願一乗海なり』と言っています。こんな事は善導も言わなかったことで、善導も自分の言葉を、こんな具合に解釈する者が出て来るとは、予想もしていなかったのでしょう。
 此処には、親鸞の、それまでの仏教に対する痛烈な批判があります。『仮門』と言うのは、『仮』とは一部分妥当すると言う事だと言われます。嘘ではないのです。一部分は当てはまるが、全部は当てはまらないのです。従って、必ず漏れる者が居ると言う意味です。『余れり』と言うのは、漏れた者の事です。
 八万四千の法門は仮門である。嘘ではないが、漏れる者が居ると言うのです。この仮門に留まってはならないと忠告するのです。
 仮門に留まってはならないとは、常に漏れる者が居る事を見失ってはならないと言う事です。漏れる者は誰かと言う事を問い続けると言う事です。その漏れる者とは、私自身の事なのです。
 漏れる者を悉く包み切るのが、一乗と言う事ですから、一人の漏れる者も残さない法は、本願一乗しか無いと言うので、それを海に譬えて本願一乗海と言ったのです。
 従来の佛教に対する理解も、新しく興って来た禅宗や日蓮宗の仏教理解も、仮門にすぎないのです。必ずそこから漏れる者が居る、それを見い出す事を忘れてはならぬと言うのです。
 日本に広く行き渡っている仏教理解は、逆謗闡提は仏法の器に非ずと言って排除されていました。『縁なき衆生は、度し難し』と言うのです。所が、
  本願円頓一乗は 逆悪摂すと信知して
煩悩菩提体無二と すみやかにとくさとらしむ。(曇鸞和讃)と、
 ここに、逆悪も漏らさぬ、本願円頓一乗の法が初めて提示されたのです。これは既に曇鸞によって示されれて居たのですから、親鸞は、堂々とこれを主張したのです。
 八宗同心の訴訟と言われるように、仏教界が挙げて、法然批判に回ったのですが、其れにも拘らず、浄土真宗が生き残れたのは、法然・親鸞の主張に、誤りが無かったことによると思われます。
 其処に、日本独自の思想的素質があると思われます。浄土真宗は日本民族によって受け
入れられた思想です。中国では善導によって浄土教は一応完成されたのですが、百年ぐらいで見失われてしまいました。日本と異なる風土があるのでしょう。この後、再び、中国
佛教に浄土の思想が復活することが出来るか否かは判りません。
 浄土真宗は、日本民族にだけ通用するものではありませんから、この後、是非世界中に浄土真宗が伝えられることを願って止みません。
 浄土真宗が、日本に於いて独自の発展をしたことについて、日本独自の文化的基盤が在った事は、確かな事実でありますが、それがどのようにして育まれたのかは今の所何とも言えません。恐らく、縄文時代の思想形成に関わるものと思われますが、縄文時代の思想は、弥生以来の中国伝来の思想によって、塗りつぶされてしまいましたので、復活が容易ではありません。親鸞聖人に依って残されたものを大切に伝承して行くことが大事であろうと思わます。  
 『自性唯心に沈んで、浄土の真証を貶す』と言う問題を抱えて、親鸞聖人の心を訪ねる時、従来仏教の教えとして人々に伝えられて居たものが、仮門として批判され、本願念仏の一法が、本願一乗海として受け止められたのであります。
 仮門と言って軽蔑してはならないのです。仮門は仏教の基礎構造であり、真実の仏法に入る為の門であります。此の仮門を潜って、それを貫いて出てこそ、本当の仏教に出会うことが出来るのです。仮門に留まってはならないと言う事は、仮門を潜って真実にまで自覚を深めて行けと言う事です。
 聖道門の教えは、仏教の基礎構造であります。此れを学んで、それから浄土真宗を学ぶ必要があるのです。いきなり浄土真宗だけを学ぶときには、本願他力の意味が判りません。
 『他力』と言う言葉が誤解されたのは、『他力』が『恩寵の宗教』と考えられたからであります。平安時代以来、浄土の教えが、専ら、仏の慈悲に縋って救済を求めると言うことに終始して来た事は、確かな事実であります。その為に、浄土教が恩寵の宗教と理解されて来ました。
 所が、法然と親鸞は、この従来の『恩寵の宗教としての浄土教』を根こそぎ、引っくり返したのです。こんな事は、中国伝来の思想では考えられない事です。日本民族独自発想であります。恩寵の宗教は、他因外道です。仏教は何処までも『自因自果』の法則を徹底して守り続けて来ました。親鸞聖人の『他力本願』の教えも、『自因自果の法則』の上で語られてきたのです。
 親鸞が『因無くして、他の因の在るには非ざるなり』と言う曇鸞の言葉を、四度までも教行信証に引用して居る事は、他力と言う事が、無因外道と他因外道に転落する事を、警戒している証拠であります。
 真宗の学徒は、これを充分に心得えるべきです。仏教学だけを学んで、真宗学を学ばない者は、仏教が理論になり、単なる学者になります。真宗学だけを学んで、仏教学を無視すれば、恩寵の宗教に堕落します。
 聖道権化の方便こそ、仏道に入る為の重要な門であります。宗門の大学では、これを心得て教育して欲しいものです。私も、九十五歳になってやっと其れが分ったのですが、もう先がありませんですから、後の人に託すしかありません。
  (続く)

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