水琴窟 45

       
水琴窟 45
  問 真と仮と偽
  答 そもそも、教には、真と仮と偽の区別が在ると言われます。
 『偽というは、則ち六十二見、九十五種之邪道是なり。』 『涅槃経に言わく、世尊常に説きたまわく、一切の外は九十五種を学びて、皆悪趣に趣く』 (信巻末、12の93)  偽というのは、外道のことで、『外を学びて、皆悪趣に趣く』と言われるのですが。
又、『あれが悪い、これが悪い』と目が外に向いて、自己を肯定し、自分の内を見ようとしない者も外道であります。          
 外道には仏教以外の教えという意味の外に、外向きの教えという意味があります。たとえ、仏教の形を取っていても、自己を抜きにして外ばかり問題にしていれば、此れも外を学ぶ者であります。
  五濁増のしるしには この世の道俗ことごとく 
外儀は仏教のすがたにて 内心外道を帰敬せり (愚禿悲嘆述懐、11の38)
 考えてみれば、私達の生き様は 全て外道に犯されているのでは無いでしょうか。外道が仏教を信じないのは勿論ですが、今こそ仏教をしっかり学ぶべき時であると思われます。
所が、浄土真宗を学ぼうとする者に取って、もう一つ重大な問題として、『仮の教え』の問題があるのです。それでは『仮の教え』と言うのはどんなことでしょうか。
『仮と言うは、即ち是れ、聖道の諸機、浄土の定散の機なり』 (12の92)
   念仏成仏これ真宗 萬行諸善これ仮門
    権実真仮をわかずして 自然の浄土をえぞしらぬ
   聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて
    諸有に流転の身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ (11の19)
  親鸞聖人は,聖道『八萬四千の法門』は全て仮の教えであると言うのです。更に、是れにとどまる者は、諸有に流転の身となると言うのです。それでは、聖道門の教えは全て要らないものを説かれたのかと言うことに成ります。そおではありません、仮は『仮りのもの』と言うことで,『偽』ではありません。偽でないとは、真実であると言うことです。真実ではあるが、此の教えでは、漏れる者があると言うのです。
 其れでは、何故お釈迦様は、聖道門の教えを説かれたのでしょう。それは、衆生の機類が様々であるからだと言われています。あらゆる衆生に目を覚まさせる爲に,種々の法門を説いて、此の教えなら自分も出来るのではないかと思われる道を選ばせて,精進させて、自己の真実の姿に目覚めさせる爲であります。
 散々取り組んだ挙げ句の果てに,いずれの行も及び難き身であると、目覚めるのです。人間は本来、弥陀の本願に依らざる限り救われる道の無い身であるのです。ですから、お釈迦様の真意は,弥陀の本願を説く爲でありますが、初めから其れを説いても誰も聞いてくれないのです。人間は、生まれながらにして、自分は立派に自分の力で向上していける者と思っているのです。その為に、聖道門の修行を説く必要があるのです。
 聖道門の教えは、決して、要らぬ者を説いたのではありません。是れが無くては、浄土の法門がとけないのです。其れで、聖道門を要門というのです。その要門の意義を自覚して、聖道門を学ぶべきです。
 例えば、唯識の教えを学んで見ると、念仏の救いが何故必要かと言うことが能く理解されます。親鸞聖人が法華経や華厳経その他の経典や祖釈を多く教行信証に引用されるのも、聖道門の教えが基礎に成って、その上に浄土真宗が説かれている爲でありました。
 ただ、聖道門に留まって本題の浄土真宗に進まない者は、諸有に流転の身と成るのです。あくまで、浄土真宗に依らねば,衆生の救いは成就しないのです。
 仮の教えは、漏れる者があると言う事だ言いました。『「門余」と言うは、「門」は即ち八万四千の仮門なり、「余」とは則ち本願一乗海なり』 (12の173) と親鸞は言いました。
 わざわざ『余』と言う文字を抜き出して、八万四千の法門と言われる釈迦一代の説法から『漏れる者』があると言う事実を、明らかに示したのです。是れは元、善導大師の書かれた文章ですが、善導が思いも知らぬ文章に読んだのが,親鸞の読み方であります。
 こんな乱暴な読み方は、善導に対しては冒涜としか言えませんが、親鸞には、どうしてもこの様に読まねば済まされない篤い思いが有ったのです。
 聖道門の教えは、『漏れる者』がある事を承知の上で説かれているのです。それは、漏れる者が自分で有ることを自覚させる爲で有りました。その釈迦牟尼如来の真意を読み取る事が出来ないならば、釈尊の折角の説法が無駄になるわけです。
仏道の歴史は、永い年月を懸けて、人間の真実の救いを尋ねて来ました。そうして遂にその願いを完成したのです。それが、念仏往生の道であります

。『悲願の一乗』と言われる道で有ります。
 親鸞は、此の『悲願の一乗』を顕す為に,敢えて善導の文章を読み替えたのです。其処には、親鸞聖人の血の滲む苦闘があったのであります。        
 この世の一切の衆生は、実は、皆、聖道門の教えからは漏れる存在で有ります。是れを『末法五濁の衆生』と言います。『末法』とは、単に、世が末になったと言うことではありません。釈尊の時代も末法でありました。『正像末の三時』と言うのは、自覚の問題であります。だから、道元が言う『正法の時代であると自覚せよ』と言うのも一理あるのです。
  正法の時機と思えども、底下の凡愚となれる身は、
   清浄真実の心なし、発菩提心いかがせん。(11の34、正像末和讃)
 と親鸞は詠いました。いくら正法の時代と思い定めても、底下の凡愚である者には、発菩提心など及びもつかぬのであります。其れは、親鸞が二〇年もの間、比叡山で悪戦苦闘した挙げくの自覚でありました。容易に覆ることの無い信念であったのであります。   どんなに正しい教え言われても、それから漏れる身である限り、何の益にも立たないのです。八万四千の法門は、みな真実の教えですが、漏れる者に取っては、何の益にも立たないのです。
 『聖道権仮の方便に 衆生久しく留まりて 諸有に流転の身となる』と言うのは、『あれでも、少し位は善根が在りはしないかという』淡い望みに引かれて、聖道の教えに未練を持つ者の事であります。人間は、夢を見続ける存在です、中々夢を捨てることが出来ないのです。その為に何時までも迷い続けなければならないのです。
   

         

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