水琴窟 52

    水琴窟 52      
問 三願・三機・三往生

   ①、至心信楽之願(第十八願) 正定聚之機  (12の55)
                 必至滅度之願 難思議往生  (12の118)  仏説無量寿経 真実之教 浄土真宗 (12の3) 
   ②、至心発願之願(第十九願) 邪定聚之機 双樹林下往生 
    無量寿仏観経之意なり。 (12の160)

   ③、至心回向之願(第二十願) 不定聚之機 難思往生 
 阿弥陀経之意なり。 (12の160) 仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経の三経を浄土三部経と名付けたのは、法然上人でありますが、元々、曇鸞大師の手元に集められて居ました。此の三つの経は元来翻訳された場所も違い、時代も異なりますのに、あの広い中国大陸で如何して一ヶ所に集められたのかと、平野修先生は問題にしています。私などは、問題にも為ないで読んで居たのですが、言われて見ると確かに不思議なことであります。之は、当時の中国での、『道教』の流行に依るのであろうと言われています。
 道教は、不老長生を求めて、仙人になることを最上の理想として説きます。二世紀に始まって盛んになります。丁度その頃が、曇鸞大師の活躍される時期と一致すると言うのです。
 曇鸞が、仙経を得て得意になって、菩提流支に自慢した所、インドには無量寿の教えが有るのだと叱かられて、翻然として悔悟し、直ちに仙経を焼き捨てて、偏に浄土教に帰したと言うエピソードも、単なる個人の物語では無く、当時の中国の宗教事情を反映した、象徴的物語であったのでありましょう。
極楽とか、安楽世界とか、無量寿と言う言葉が、当時の民衆の要求に叶い、歓迎され、受け入れられたのでしょう。しかし、佛教の現世否定的思惑と、道教の現世肯定的思惑とには決定的な相違がありました。其れが、菩提流支による叱責で有りました。 
 所で、長生不死の要求は、中国ばかりではありません。今日の日本でも、大いに流行している思想です。無量寿などと言っても、現代人は驚きませんが、如何に若く見せるかという事が現代人の関心事で有ることは、テレビを見ていても痛切に感じられます。加山雄三等は、毎日テレビに出て若さを誇っています。その様な時代の要求の中で、誰も仏法を聞こうとは為ないのです。それだけ、末法の闇が深くなって居るのでしょう。
 善導大師の時代には、特に、観無量寿経が注目されます。既に、諸師と言われる人々に依って解説がなされていました。善導は、慧遠や天台大師等の仏教の大家を向こうに回して、古今を揩定為ると言って、果敢に挑みます。この善導の試みは、見事に成果を上げましたが、彼の死後、百年許りで、中国では葬り去られます。之は、法華経中心の、一神教的仏教界の風潮の勢であります。
 善導の果たした、偉大なる功績は、遂に所を変えて、日本の法然に依って、初めて発揮されるのです。善導の『二尊教の精神』は、浄土真宗として日本の大地に深く根を張りました。日本独自の風土に依るのでありましょう。
  善導源信すすむとも 本師源空ひろめずば
   片州濁世のともがらは いかでか真宗をさとらまし (高僧和讃)
誠に、広大恩徳謝し難しで有ります。
 
 さて、第十八願、第十九願、第二十願を三願と申します。この三つの願の関係に就いて考えて行きたいと思います。親鸞聖人は、この三願について非常に精密な分析を為ているのです。
 先ず、第十九願です。この願に、仏陀の説法の全てを統括して納め、聖道権化の方便と名付けます。
親鸞は、双樹林下往生と名付けました。双樹林下とは、釈迦無尼仏の入涅槃の象徴です。親鸞は、釈迦牟尼仏の入涅槃を仏道成就の目標として仏道修行に励む者を、双樹林下の修行者と名付けたのです。
 所が、その目標に、今生で果たせない者は、阿弥陀仏の浄土に往生して、修行を完成して、仏道を成就したいと願う者が、双樹林下往生を求めるのです。
 双樹林下の仏道は、『竪』と言われます。竪型の歩みです。飽くまでも、理想を求めて、より高い位に昇る事を目指して、努力を続けて行く歩みで有ります。
 聖道門は、全て、この竪型の道で有ります。この歩みが間違いであると言うのではありません。但、この歩みには、滑り落ちる者が居ると言うことです。
 そこで、『聖道権化の方便』と言うのです『方便・権化』と申しましても、虚偽の教えではありません。真実の教えであります。
 真実の教えではありますが、それからもれる者が居るのです。其れは、漏れる者本人の責任ですから、努力して上がって来いと言う訳です。其れで、何度も何度も試みる訳ですが、失敗して何うにもならない者が居るのです。之を『苦悩の有情』と申します。
 そんな者は見捨てられれるのでしょうか。此の『苦悩の有情』の爲に設けられたのが『弥陀の本願』でありました。
 第二十願は、『弥陀の本願を信じて、念仏申せ』と言う教えです。此の弥陀の本願に依って、ひたすら念仏申す事を勧める本願であります。
   如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情を捨てずして
    回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり  (正像末和讃)
 此処に、苦悩の有情が救われる道が有ったかと喜び勇んで念仏申すのです。念仏申すのですから、文句はないのですが、此処に、人間の最後の躓きが隠れて居るのです。
 其れは、『私は念仏しているから善いが、貴方は念仏しないから困る』と言いたい心が抜けないものが有るからです。
 之を、『本願の嘉号をもって己が善根とする』と申します。此処に、二十願の問題があるのです。しかし、如来は、先ず二十願に入る事を勧めます。
 此の念仏の道を、『横』と言います。『竪』に対して『横』と言うのです。別にカニの様に横に歩く訳ではありません。『竪』に対して『横』と言うのです。
『横』と言うのは、他力を表します。他力とは如来の本願力です。
  

 

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