水琴窟 55

       水琴窟 55
 問、聖道門をさしおきて、選んで、浄土門に入れ。
答、仏道成就のための、第二の関門が、『聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ』と言う問題であります。これは、法然上人の選択集にある『三選の文』の言葉で有ります。(12の36)。
 聖道門なんかは、自分には用事の無い問題であると言ってはならないのです。聖道門は、私の求道に大切な、必ず潜らねばならない要門であるのです。
 法然上人は、仏道修行の立場から、先ず聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れと仰せになりました。第二の関門からの仰せになるのです。其れまでに、第一の関門があることは承知の上であります。
 この第二の関門を超えることは容易な事だと考えるかも知れませんが、どっこい、是れが第一の関門を超えるより難しいのです。私達は初めから、もう浄土門に入って居るから大丈夫だと思って居るのですが、聖道門を投げ棄てて、浄土門に入ると言う事は、自覚の問題であります。
 形は浄土門でも、心は外道なのです。先ず、第一の関門からやり直さねば成らないのです。そうして、第二の関門の克服に取りかかるのです。 
 聖道門は、行を大切に説きます。八万四千の法門が説かれていると言われるのは、 衆生の根性が八万四千あるからで、この行なら私にも出来ると思われる行を選んで、取り組むのです。 
 所が、幾ら努力して取り組んでも、仲々うまくいかないのです。そこで、色々行を変えて見るのですが、同じ結果に終わるとき、やっと自分は聖道門の行からはみ出して、漏れて居る者ではないかと気付くのです。『何れの行も及び難き身』と言う目覚めです。
 この漏れているのは、自分であると言う自覚が定まる時、初めて、第二の関門を潜って、浄土門に入る事が出来るのです。然し、漏れていると言う自覚に徹する事が難しいのです。人間は、容易に自分を見限る事が出来ません。それで、夢を見続けるのです。
 夢を見続ける限り、この人は、人生空過を避けられません。如何に多くの人が、人生を空しく空過して終わって居る事でしょう。夢を見ることは、仲々楽しいことで、手離なせないのです。
 又しても、又しても、取り替え、引き変へして、夢を追い続けて、流転輪廻を続けて行くのです。流転輪廻は止まりません。
 『人間は、聖道の子である』と、大森先生はよく言われて居ました。その当時は、『そんなものか』と簡単に聞き逃して居ましたが、今にして、思い至る事であります。
 聖道門への執着は仲々棄てられません。なんとか、僅かでも、善根がほしいのです。その思いが、聖道門に、希望を見出そうと為るのです。
 この思いを超えて、遂に、本願念仏の世界に到達為るのですが、其処に、もう一つ超えねばならぬ最後の難関が待ち構えて居るのです。 

 助業を傍らに為て、正定業を専らに為べし。

 是れが最後の『第三の関門』であります。折角、本願念仏の法に遇いながら。『本願の嘉号を、己が善根に為る。』と言う、佛智疑惑の問題であります。仏智疑惑とは、仏の存在を無視して、自分の思いを中心にして生きることです。
 自分では念仏して居るのだから大丈夫だと思い込んでいるのですが、自分の思いで生きていて、仏のおわします事を忘れていることに気付かないのです。
 私は、昭和十七年の島根県連で、夜晃先生から『頭を下げよ』と厳しく叱られましたが、如何して頭を下げねばならないのか、さっぱり判らず、結局、形だけ頭を下げて終わりました。可成り、長い、聞法を経なければ、この『頭を下げよ』と言う事は理解出来ないものであると、今でも思っています。
 化身土の巻きには、三願転入と言われる文章があります。『・・・然るに、今特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり』、転入は『今』で有ります。常に『今』転入するのです。
 又しても、如来おわします事を忘れて、自分の思いを中心に、考えたり行動している我が身の姿に気付いた時、念仏に帰るのです。其れを、『今転入する』と言うのでしょう 先日も、家内が便所の電気を消し忘れて居る事を注意しました。すると、すかさず『貴方も忘れることがあります。』とやり返しました。
 そんな時、他人のことを言う必要は無いのです。黙って、『すみません、南無阿弥陀仏』と言えばよいのに、困ったやつだと思いました。所が、そう思っている本人はどんな心かと言えば、如来のおわしますことは忘れて、但、善悪のみを言い合っているのです。其れに気付く事は容易に出来ません。誠に、申し訳無い我が身であると知らされました。
この第三の関門を超えなければ、念仏は申されません私の念仏が空疎なものになって居る原因が此処にあるのです。
 『私の念仏は空穂(しいら)の念仏であります』と言う訴えを度々受けました。その度に、『空穂の念仏と言うものは無い。』答えていました。然し、念仏に空しさを感じて居る事は、『機に深信』の不徹底の促しであったのです。其の事に気付いて忠告を為てあげられ無かったことを悔いています。
 曽我先生が、『特殊部落』と言う言葉を、昔、使っていられたのを指摘されて、『機の深信が、足り無かったのであります。』と言われたと聞いています。その当時は、先生の真意を測りかねて居ましたが、糾弾を機縁として、『機に深信の不徹底』を見出して居られたものと思われます。
 此の第三の関門を潜る事が、『機の深信』の徹底で有ります。法の光に照らされて、機に深信に徹するとき、『念仏申さんと思い立つ心の起こる時、摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり』(歎異抄)と言われるのでありましょう。
 誠に、機の深信に徹する以外に、念仏の救いはありません。又しても、如来のましますことを忘れて、『佛智疑惑』の私で有ることを、内に見出し続けて生きねば成りません。
 念仏が、空しく感ぜられる時、是れが、『機の深信の不徹底で有る証拠』と知らせて頂いて、愈々、念仏申して、生きさして頂きたいものです。
 
 
 

  
 

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