水琴窟 8

水琴窟 八
 問、どうして人を殺してはいけないの。   
答、
 生きものは皆自分の命を大切に護って生きています。だから全ての命あるものは、殺してはいけないのです。所が、生きものは食物を取らなければ生きることが出来ません。ここに生きものの世界の矛盾があります。
 弱肉強食と称して当たり前の事として居ますが、この矛盾の故に生死界は永遠に苦海であります。釈尊は、この生死海の矛盾の解決のために出家されました。
 決論として、『人生は苦なり』との提言が生まれました。この世には、他人を養うために生きて居る者は居ません。其れを殺して食べているのは申し訳無いことであります。  世間の法律では、人を殺せば罰しられますが、此は人間の生きるための最低の約束であります。厳密に言えば、蠅一匹、虫一匹殺してもいけないのです。だから、仏教国の中には、厳しく殺生を禁じている国もあります。日本ではそんな厳しい戒律は護られていませんが、道理としては当然のことであります。
 だから、生きものを殺して平気でいるような生活は慎むべきでしょう。誠に申し訳けない事であります。人を殺しては申し訳ないでは済まされませんが、人以外のものを殺しても良いという道理はありません。今日では、肉や魚は食品として平気で買ってくる訳ですが、せめて、申し訳ないこととして、合掌して頂くべきであります。
 『我今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵とによりてこの浄き食を得く・・・』と称えて食事を頂いていますが、『衆生の恩恵』の中にはあらゆる動植物の命が入っているのです。この恩恵が無くては、一日も生きることが出来ないこの身であります。
 思えば、私が今日まで生きる為にどれだけの命を取って食べて来たか、生きることは罪深いことであります。罪深い身であることを自覚して、生きさして頂くことしか出来ない私です。
 世間の法律で、人を殺してはいけないと決められていることには、もう一つ別の意味もあるのです。即ち、人間は、人間に生まれたことを尊重しなければならないのです。これも人間以外の生きものにも通用することでありましょうが、人間は人間に生まれたことを大切にし、尊重すべきであると言うことです。
 それは人間だけが『万物の霊長』であるからではありません。人間以外の生きものにも共通したものです。若し人間以外の動物や植物にも、教えがあるとすれば、同じように説かれている筈です。
 人間は他のものに特別に迷惑をかけて生きねばなりませんが、それでも人間に生まれたことを感謝し、尊重すべきであります。私が私であることに無上の歓びと感謝をもって生きるべきであるというのです。
 若し其れが出来ないとすれば、私は私であることに不満や呪いをもって生きることになります。『私は生まれて来なった方が良かったのだ。』と言う人がいます。其れは不幸なことです。ただ一度だけの貴重なこの人生が、不平や不満。怨みと後悔だけに終わるのではまことに悲しいことなのです。
 『本願力に遇いぬれば、空しく過ぐる人ぞなき。』と和讃に言われています。折角の人生が、空しく終わることほどの不幸はありません。 
 『観仏本願力、遇無空過者』と天親菩薩の願生偈に説かれるのを受けて、親鸞聖人は、入出二門偈に『観彼如来本願力、凡愚遇無空過者』と言い、『凡愚』と言う言葉を加えています。天親菩薩は凡愚とは言っていません。親鸞聖人が態々『凡愚』と言う言葉を加えたのは、本願力に遇うと言うことは、凡愚の自覚に於いて成就するからです。本願力に遇うたことが事実なら、必ず其処には、凡愚の自覚が生まれるのです。凡愚の自覚が無いとすれば、本願力に遇うたと言うことが観念に過ぎないのです。
 本願力に遇うことによって、凡愚の自覚に徹する者にして、初めてそこに『遇無空過者』の天地が誕生するのです。
 人を殺してはいけないのは、相手に迷惑をかけるからだけではありません。自分の生きて居る意味も踏みにじる事になるからです。人間は、他人に迷惑をかけることには何とも思わない人でも、自分が生きて居る意味を踏みにじられることには耐えられないものです。
 本願力に遇うことによって、私自身の生きて居る意味がはっきり知らされた時、初めて、『遇無空過者』と名乗ることが許されます。
 他人の命を大切にすることは、同時に自分の命も大切にすることです。地球上の一切の生物は、お互いに他の命を尊敬し、愛し合って生きるべきであります。所が、生きるためには、他の命を奪って生きねばならないという『痛ましい現実』があります。それだけで、私の人生は『罪悪深重』であります。其の痛ましい現実から目をそらせて生きて居ることの浅ましさに気づく時、念仏申すより外にはありません。
我々は食事をする時に合掌して食前の言葉を称え、食べ終わって食後の言葉を称えて居ますが、謹んで、食の由来を想い、食の功徳を感謝すべきであります。数え切れないものの命を取って、今日まで生き永らえることが出来たのです。誠に申し訳ないこの身であります。  
 従って、我が身を大切にすることと共に、他の命を頂いて生きて居ることの意味を知って、他の命を大切にするよう心がけて生きたいものです。人を殺すことだけが罪になるのは、一応この世の約束ですが、本来、一切のものの命を大切に尊んで生きるべきであります。其れが人間としての、大切な生き方であります。
 其れで仏教では『殺生戒』を戒律の一番最初に挙げて戒めているのです。人を殺してはいけないのは、罪を受けるからではありません。罪を受けることさえ免れれば人を殺しても善いという論理は本来無いのです。
 戦争が永く続いて、人を殺すことが平気で許される時代になりました。この事だけでも、人間の世界が浅ましい地獄道であることが証明されているわけです。
 日本では憲法で戦争を否定されていますが、其れでは生きてゆけないと言うことで、戦争復活の運動が起こって来ました。誠に悲しいことでありますが、人の世では、戦争を止めては生きられないのでありましょうか。平和についてもっともっと良く考えて行かなければなりません。誰も戦争を求めているものは居らない筈ですが、戦争は無くないません。どうすれば戦争が無くなって平和な時代が来るのか、人類の永遠の難しい課題であります。
 人類はこの課題を解決することが出来ない儘に、殺し合いを続けて行って、遂に滅亡して行くのでしょうか。
 仏教は、戦争のない国を創るために生まれた筈ですが、その使命を果たす事が出来無い儘で今日まで来ました。誠に悲しい事実であります。私もこの度の戦争に荷担した者であります。人間が殺し合う事実を眼のあたりにした経験の持ち主です。馴れてしまえば、人が死ぬる事など何でもないことに為ってしまいます。本当に恐ろしいことです。
 敗戦になって、やっと人間らしい心を取り返してみて、戦争の痛ましさが身にしみ、二度とこんな経験はしたくないと心に決めました。所が、戦後七十年たってみると、又人間は戦争を始めようとしています。よくよく人間は戦争をしなければ生きられない動物なのでしょうか。
 戦争の経験者である我々が戦争の惨めさを、もっともっと語っておかなければ為りません。敗戦の当時は、日本人はその事を痛切に感じた筈ですが、『喉元過ぎれば熱さを忘れる』の喩えのように、今の日本人は戦争の苦しみをすっかり忘れてしまいました。
 人間が、我執の故に殺し合いを続けている事実を、何処までも、何処までも、悲しい事実であると、本当に目覚める日が来ることを、心より願う者であります。

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