釈迦弥陀は慈悲の父母(3)

釈迦弥陀は(3)
【二尊教に就いて】
 観無量壽経の第七華座観に、空中に住立する阿弥陀如来が影臨する姿が説か
れます。其処に、釈迦・弥陀二尊の関係が適切に述べられています。
 『娑婆の化主、物の為の故に想を西方に住せしめ、安楽の慈尊、情を知るが
ゆえにすなわち東域に影臨したもうことを明かす。これ即ち、二尊の呼応異な
ることなし。ただ隠顕殊あり』と善導は言います。 
 二尊の呼応によりて、衆生の救いが成就されるのです。釈迦弥陀二尊は、
それぞれ別の働きをしながら衆生の救いという一つのことを成就するのです。
唯ここに『隠顕殊あり』という言葉があります。『顕』は弥陀が現れることで
すが、『隠』は釈迦が隠れたと云うのでしょう。経典にはそんなことは説かれ
ていませんから、善導が勝手に解釈したのです。
 それまでの世尊は、『身紫金色、座百宝蓮華』と説かれていました。その最
高の姿をしていた釈迦が、姿を消したのです。どこへ行ったのでしょうか。
 これは、釈尊も、尊高の姿を変じて、我々と同じ凡夫の身になったのでしょ
う。阿弥陀仏を礼拝すものは、凡夫の身になって南無阿弥陀仏と称するので
す。釈迦の声に応じて弥陀が出現したということは、釈迦が念仏していること
であります。
 釈迦は、弥陀の本願を衆生のために説くのですが、自らもその本願に帰命す
るのです。それが、南無阿弥陀仏の心であります。イダイケは、その釈尊の姿
によって阿弥陀仏を拝し奉ることが出来たのです。
 『仏力によるが故に』とは、釈迦の念仏の姿によるが故にと言うことです。
念仏によらねば念仏は伝えられません。第十七願の成就はそれを表しているの
です。
 大無量寿経下巻には、第十七願成就文が二度繰り返して挙げられます。この
第十七願成就によらねば、仏滅後の衆生が阿弥陀仏に遇うことが出来ないので
す。
 これこそ、『世尊我今仏力に因るが故に無量壽仏及び二菩薩を見たてまつる
ことを得たり、未来の衆生、當に如何にして無量壽仏及び二菩薩を観たてまつ
るべき』と言う、イダイケの切実な問いに答えたものであります。
 釈迦弥陀二尊の、発遣と召還と云う『二尊二教』の構造によって、衆生の救
済が成立するという『二尊一教』が成就するところに、浄土真宗の特徴があり
ます。この二尊教の宗教構造が、もっとも健康な宗教構造であると言われてい
ます。そもそも、健康な宗教とは、如何いうものでしょうか。
 色々の視点から問題を取り上げられると思いますが、まず、人間を、無因論
や他因論に堕せしめない宗教であると言えると思います。
 無因論はニヒリズムでありますので、自暴自棄になり何事も真面目に取り組
むことが出来なくなり、人生を破滅させます。
 他因論は、他の力に振り回されて自己を失い、迷信や奇跡信仰に走ります。
殆どの宗教がこの他因論に属しますが、あくまでも自因自果の道理を堅持する
宗教が健康な宗教と言えるのでしょう。
 自因自果の道理とは、すべての原因は自己の内にあるというのです。『そん
な馬鹿な事が在るものか』と思う人があると思いますが、私の外に有るものは
全て縁であります。
 普通、私たちが因だと言っているものは、全て縁であります。因は、私の内
にあるのです。縁に過ぎないものを、因だと思っているから、恨んだり、憎ん
だり、腹を立てたりして苦しむのです。
 自然災害も縁であります。その縁によって苦しまねばならない因は、私の内
にあるのです。その証拠には、同じ事件によって苦しまずにいる人も居るので
す。
 縁は無量にあります。その縁に依って苦しまねばならない因は、私の内に在
るのです。それを業と言います。宿業と云うのは、宿世の業でありますが、い
かなる縁に依っても、必ず、苦しまなければならない様に成っているので、業
と聞けば皆嫌な顔をするのです。
 たとえ初めは喜ばしいことでも、時が経ってみると苦しみに変って居るので
す。それが娑婆の現実です。『生死の苦海ほとりなし』とは、誠に仰せの通り
であります。どの様な縁に遇っても、必ず苦しむようになっているのが我々の
現実であります。それに気づかず、縁を恨んでいるのが私達です。しかし、縁
をいくら恨んでみても、現実は一向に代わりません。
 それを、善導大師は『無有安心之地』と云いました。所が親鸞聖人はこの言
葉を、『心を安んずるに、之より地(ところ)あることなし』と読みました。
『どうせ何処に行っても安心の地が無いのなら、此処で腹を据えて生きればよ
いではないか』と言うのです。『あるがままを受け取って念仏申せ』と言うこ
となのです。『信心決定して念仏申す身』になるのです。
 『信心決定して念仏申す身になる』方法はただ一つ、法を聞くことです。い
くら聞いても分からないという人が居ます。大丈夫です。何度も言うようです
が、私達の聞法は、有漏の経験です、有漏の経験を幾ら積み重ねても無漏には
なりません。しかし、私達が生まれるより以前から私に宿っていてくださる無
漏の種子が呼び覚まされる唯一の縁が有漏の聞法なのであります。だから、無
漏の種子が現行して下さるまで聞けばよいのです。
 必ず、無漏の種子が激発されて、清浄真実の『無漏の信心』が誕生してくだ
さるのです。一度、無漏の種子が現行すれば、この無漏の種子は、決して私を
手離すことなく、往生浄土まで私を導いて下さいます。之を『仏にお任せす
る』と言います。その為には、徹底した聞法精進が必要なのです。それはあく
までも『私』の責任であります。信心は如来より賜るものですが、聞法はあく
までも私の責任です。聞法の責任を人に任せることは許されません。
 ここにも、自因自果の法則が生きています。自己の責任を放棄して他力を語
ることは許されません。仏法は、徹底して、自因自果の法則が護られているの
です。
 さて、釈迦弥陀二尊の教が、健康な宗教構造であるという問題であります。
釈迦は行けと命じ、弥陀は来たれと呼ぶと云うのです。即ち、釈迦は決して我
に来たれとは言わないのです。
 『親鸞は、弟子一人も持たずそうろう』と言う言葉が歎異抄にあります。
『その故は、わが計らいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子に
てもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろ
うひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり』 
 徹底して、人を支配せず、ひたすら御同行として、共に念仏していられる、
ここに、釈迦弥陀二尊に対する親鸞聖人の、正しい姿勢が窺われます。
 これは既に、天親菩薩の願生偈に示されていたものであります。『世尊我一
心、帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国』と、世尊と阿弥陀仏とが明確に区別
されていたのです。
 聖道門の仏教では、大日如来も毘盧遮那仏も、皆、釈迦牟尼仏の象徴化であ
りますから、釈迦牟尼仏以外には仏の存在は認められません。所が、浄土門で
は、釈迦は、諸仏の一人でありまして、阿弥陀仏は、諸仏からは一人離れて特
別な存在であります。所謂『グレート・スピリット』として、諸仏から仰がれ
讃嘆される存在なのです。
 弥陀なくしては諸仏はありませんが、諸仏なくしては弥陀ありません。弥陀
と諸仏とは、各々その役割を異にしつつ、相助けて衆生済度の仏道を完成する
のです。
 この様な弥陀と釈迦(諸仏)の関係によって、健康な宗教が保たれるという
のです。            (続く)

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