釈迦弥陀は慈悲の父母 (6)

釈迦弥陀は慈悲の父母
            二尊教について (6) 
 此処まで浄土真宗は決して他因論ではないと云う事を述べて来ました。恩寵
の信仰は、有り難い仏様のお慈悲によって、救われるのであると云う事です
が、仏教の自因自果の道理から見るとき、これは危険な思想であります。
 『我々は何も出来ない凡夫であるが、有り難いお慈悲によって「その身其の
儘」お救い下さるのである。』と言う論法です。今日でもこんな事を吹聴して
いる説教師が居るのです。
 これは明らかに他因論です。仏教は飽く迄も自因自果の道理を堅持します。
信心は、私の内に成立した自覚でありまして、この自因によって、自果が得ら
れるのです。それを親鸞は、『自の業識』と言います。『光明名号』は外縁で
あり、『自の業識』は内因であります。
 『良に知んぬ、徳号の慈父無ずば、能生の因闕けなん。光明の悲母無ずば、
所生の縁乖きなん。能所の因縁和合す可しと雖も、信心の業識に非ずは、光明
土に到ること無し、真実信の業識斯れ則ち内因と為す。光明名の父母、斯れ則
ち外縁と為す、内外の因縁和合して報土の眞身を得証す』
           〔光明名号両重の因縁〕(12の38)
 『光明名号両重の因縁』と言うのは、徳号の慈父と光明の悲母の因縁が一つ
の因縁で、真実信の業識を内因とし、光明名を外縁とすると云うのが二つ目の
因縁であります。この二つの因縁の内で、真実信の業識を内因とし、光明名を
外縁とするとすると言う二つ目の因縁が、報土得生の因縁であります。この二
つ目の因縁によって、我々の往生が決定されるのです。
 『真実信の業識』と言うのは、聞法の縁に依って内に隠れていた『無漏の種
子』が開発されて、無漏の経験としての『真実信心』が獲得されることです。
この信心は、私の内に開かれた私の心ではありますが、『無漏の経験』であり
ますから、真実信心と言われます。 
 聞法は『有漏の経験』でありますが、『無漏の経験』を現行させる唯一の縁
となる働きを持つ経験であります。これが『護法』が見出した、『本有の無漏
の種子』という唯識の法則でありました。護法は、如来蔵思想によって、この
法則を見出したのでありましょう。
 恩寵の信仰は、人間の発想でありますから、有漏の経験であります。有漏の
経験は、いくら重ねても無漏にはなりません。しかし、有漏の経験ではありま
すが、『聞法』だけが、無漏の経験を引き出す縁になると言うのです。私達の
心の奥に、生まれてくる以前から、賜っている無漏の種子が存在すると云う事
は、如来蔵思想の主張であります。『一切衆生悉有仏性』と云う事です。仏性
と雖も、種子でありますから、直ちに動くことは出来ませんが、縁を待って必
ず動き出すことが出来るのです。
 聞法を続ける限り必ず動き出すのがが、無漏の種子(仏性)なのです。聞法
以外に信心を獲る方法はありません。ひたすら、信心が獲られるまで聞き抜く
ことです。
 親鸞の先の『光明名号両重の因縁』の文章を見る限り、恩寵の信仰が入り込
む隙は見当たりません。まさに親鸞の面目躍如たるものがあります。
 恩寵の信仰は、神の恩恵の結果ですから他因論であり、奇跡信仰は偶然の結
果でありますから無因論であります。釈迦弥陀二尊の教えはこの他因論と無因
論を超克するものであります。
 この地上に人間の形をもって生まれた者は、決して、『俺に着いて来い』と
言ってはいけないのです。それは権威や権力によって人間を支配する行為であ
ります。『俺に着いて来い』と言うのば、権威に依る支配で『強権主義』であ
ります。一神教はその構造のために、必ず教権主義になります。教権主義は他
因論です。
 釈迦牟尼仏は、人間ですから、決して『我に来たれ』とは言わないのです。
必ず『仁者(きみ)行け』と言うのです。『君、往け、我も共に行かん』と言
うのが娑婆の化主の役割であります。それを善導は『娑婆の化主、物の為の故
に想を西方に住せしめ』と言いました。
 此処に『二尊教』の重要な特質があるのです。即ち、娑婆の化主(釈迦)
は、『我に来たれ』とは言わず。『往け』としか言わないのです。それに対し
て、阿弥陀如来は、『我が国に来たれ』と言います。
 しかし、その阿弥陀仏の声は、人間には聞こえない声です。釈迦の教法を聞
くことによって頷くことが出来る声です。
 阿弥陀仏の姿も、人間の目では見えないのです。釈迦の説法によって、如来
ましますと、確かに頷く事が出来るのです。それを観経では、『空中に住立し
た阿弥陀如来』と表現しました。
 釈迦は此の岸に立って『往け』と発遣し、弥陀は、彼の岸から『汝来たれ、
我能く護らん』と召喚するのです。この二尊の役割が、二尊教の重要な構造で
あります。
 善導は、これを『まさしく娑婆の化主、物の為の故に想を西方に住せしめ、
安楽の慈尊、情を知るが故に即ち東域に影臨したもうことを明す。これすなわ
ち二尊の許応異ることなし、ただ隠顕殊あり。まさしく器朴の類、万差なるに
よって、互いにエイ匠ならしむることをいたす』と言います。これは観経の空
中住立の経文の解釈です。
 『二尊の許応異ることなし、ただ隠顕殊あり』とは、二尊教の構造を言い表
したものです。『二尊の許応異なし』と二尊一致を表して、偏に、『二尊』が
力を合わせて、衆生救済のため尽くしていることを示して『二尊一教』の趣旨
を示しています。
 所が、『隠顕殊あり』とは、二尊の異なる役割を語るのです。『顕』は弥陀
が空中に現れた事を言うのですが、『隠』とは釈迦が隠れたのです。今までは
釈迦は『身、紫金色にして、百宝蓮華に座し給えり』と最高の姿で表されてい
ました。所が、ここではその姿を隠したのです。
 何処へ行ったのかと言いますと、凡夫の姿になって、イダイケと共に念仏し
ているのです。これが『共に往かん』と言う姿であります。
 釈迦も弥陀の前では、罪業深重の凡夫の姿で念仏するのです。最高の釈迦牟
尼仏の姿を消して、凡夫の姿になることが『共に往かん』と言う釈迦の姿なの
です。それを『隠顕殊あり』と善導は言いました。実に巧みな表現でありま
す。
 これで『二尊二教』の儘が『二尊一教』になる道理が明らかに成りました。
『二尊二教』と『二尊一教』と言う構造が 二尊教の大切な姿であります。此
処に、宗教の健康性が保たれる重要な理由が有るのです。 
 宗教の健康性とは、人間は他を支配したり、強権によって他を縛ることは出
来ないと云う事です。権威を用いて他を束縛することが、宗教の健康性を破る
ことになります。
 権威を用いて他を支配することは、不健康なことでありますが、ジハードと
称して、他人を殺すことを正当な宗教行為とする事など、以ての外の事であり
ます。
 ここに、一神教が抱えている、最も困った問題があることを、世界の人々に
正しく知ってもらう必用があるのです。一神教は、優れたところも沢山有る訳
ですが、一神教以外の宗教の存在を許す寛容な精神を持つべきでしょう。これ
は、キリスト教などには見られる傾向です。ただ原理主義者は排他的傾向が強
いようですので、もっと冷静に話し合ってゆく必要があります。 
 此の事をはっきり発信出来るのは、『二尊教』の持つ特権であると言えまし
ょう。浄土真宗は、冷静に、他の宗教と話合って、お互いの存在の意義を認め
相ながら、宗教の健康性を大切に保って行きたいと思います。

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