碇草13

碇草 明治維新の功罪
今日の日本人は、テレビの大河ドラマなどで、明治維新は日本の近代化に必要不可欠な素晴らしい改革であったと宣伝されてきた為に、すっかり洗脳されてしまいました。所が、この明治維新にも功罪があることが,段々指摘される様になってきました。
『明治維新の大嘘』と言う本が発刊せられて居たり、大河ドラマの間違い等が報道されて居る、この頃であります。テレビドラマは、娯楽物ですから、其れを責める必要はありませんが、明治維新の真実の姿を認識することは、日本人にとって大切な問題であります。 扨て、明治維新の功罪ですが、功も罪も共に有る訳ですから、一方だけを主張するのは不公平でありますが、今は、罪の方を取り上げて見たいと思います。
明治維新の罪の内、最も大きなものは、宗教の問題でありました。所謂、神仏分離令が発布され、新しく、『国家神道』なるものが創り出されて、それまでの古い宗教観念が、打ち破られてしまいました。確かに、古い宗教観念には、問題はあったのですが、何もかも十把一からげにして捨てられて仕舞ったのでした。
幸い、真宗大谷派には、清沢満之と言う方が出られて、教学の刷新が諮られましたので、今日の浄土真宗大谷派がある訳ですが、時代の荒波は、すさましいものでありました。
佛教は、信順を因とし、逆謗を縁として、弘通すると言われますが、確かに、その通りで、あの明治の破壊が無かったなら、今日の、新しい教学が無いのでありまして、すべて、有難い因縁でありました。
浄土真宗は、蓮如上人の時代に急激な発展を遂げました。これは偏に蓮如上人の功績に依るのでありまして。その御恩徳は申すまでもないのでありますが、同時に弊害も生まれました。それは、諸仏の意義が変えられて、一神教的体制になったことであります。
これは、戦国時代という、戦乱の当時としては、やむを得ない選択であったのかも知れませんが、親鸞聖人の教えから、はみ出したことは事実であります。その結果、他力の信仰が、阿弥陀仏のお慈悲にひたすら縋って助けられるという、恩寵主義の信仰にすり替えられました。
親鸞は、他力の信仰が、恩寵主義になることを極力警戒したのです。所が、蓮如によってそれが崩れたのです。これは、真宗にとって重大な問題で在りますので、是非明らかにして置かねばならない事であります。
江戸時代は、蓮如上人の教化一辺倒の時代でありましたので、勢い、他力とは恩寵の宗教の事だという思想が蔓延していきました。其れを糺すために、明治の人たちが苦労をされたのであります。
然し、その弊害は、この度の戦争中まで続いて居まして、『他力本願では駄目だ』と、盛んに揶揄されたものでした。その悪弊は、今も続いて居まして、他力本願は、専ら、他者依存の思想であると信じている人が有るようです。
是には、蓮如上人の責任も否めない所があるようです。今、改めて、他力本願は、断じて、恩寵主義では無い事を強調して置かねばならないと思います。
そんないきさつがあって、明治時代以来、浄土真宗が誤解される結果になりました。その為に、真宗が非難を受ける事にもなり、宗教が混乱を極める事になるのであります。そうして、新興宗教が次々に生まれ、何が正しい宗教かも判らない時代が続いたのでありました。
扨て、神道ですが、国家神道はさておき、所謂『神ながらの道』と言われるものには、耳を傾けるべきものが有るようですが、何分、文字の無い時代の,縄文時代の宗教は、それを再現することは難しいことであると思われます。唯、無意識のうちに蓄えられているものを取り出して見るより方法が無いのであります。
神話や、昔話などは、変形されて終いますので、中々厄介な問題であります。然し、親鸞によって見出された浄土真宗は、恐らく、縄文時代の精神に裏ずけられているものが,多く残されて居るのではないかと考えられるのです。
浄土真宗の信仰には、諸仏の信仰が大切に伝えられています。諸仏は、真理をこの世に伝える為の重要な役目を果たす存在であります。諸仏称名の願は、南無阿弥陀仏を、この世に伝える為の、重要な役目を果たすものでありました。
諸仏称名の願に依らねば、我々は、弥陀の本願に逢えないのであります。『聞其名号、信心歓喜』は、偏に、諸佛称名の願に依って成就されるのであります。
明治維新の功罪と言う問題でありますが、明治時代の宗教の混乱と、其れを悲しんで奮起した諸先輩の努力によって、今、私は念仏申しているので有ります。功罪共に、私の為には、御恩徳でありました。今此処に、改めて、御恩徳を感謝申し上げる次第で御座います。
さて、明治維新の結果、国家神道なるものが創り出されて、日本は神国であるとされた為に、仏教は日本には要らないものであるとまで云われるようになり、無宗教が当然の事と考えられる様になりました。此は、日本の教育事情にも影響を与え、日本人の負の遺産と成りました。
今日、此の悪弊を取り除く為には、中々大変な苦労を必要とするのであります。然し、世の中も少し落ち着いて参りましたので、是非、日本人に正しい宗教の必要性を取り戻して頂きたいものと思います。
一時流行した新興宗教も、最近では、やや収まってきましたので、正しい宗教とは何かと言うことを考えてみるゆとりが出て来た様に思われます。
新興宗教の人達も、自分は迷信だと言っている訳ではありませんから、迷信と正しい宗教とを見分ける事は難しい仕事であります。専ら、一人一人の自覚に依るより道はありません。そこで、ゆっくり時間をかけて考えていくより方法は無いのであります。
現代は、特に、仏教とは何かと言うことが、解り難い時代であると思われます。それは、誰も皆、自我意識が強くなって、無我を説く仏教等に耳を貸す者が居なくなっているからです。『今時、「無我」等というものを信ずる者が居るものか』という声が、彼方此方から聞こえて来る様です。然し、無我の教えが無いと、この世から戦争は無くならないのです。其の事を、仏教を信ずる者が言わねばならないのです。
戦争が無くならなければ、人類は滅亡してしまいます。その事を、口が酸っぱくなる程言い続ける必要があるのです。

碇草 16 明治維新の功罪 2
大乗仏教には、般若の思想と、唯識の思想と二つの大きな流れがあると言われています。般若は、直観的に語るもので、禅宗などに受け継がれています。これも大切な教えでありますが、直感的で理解が難しいのです。それに対して、唯識は、論理を極めて思考するので、この方法を採用しているのが、浄土真宗であります。
浄土真宗は、論理を尽くして、懇々と真理を語る教えであります。その教説を、じっくり聞きこんで、納得すべきであります。
然し、いくら聞いても解らないと言う声があります。確かに、浄土真宗は、特に、現代人には、解りにくい教えであるかも解りません。其れは、今日では、学校教育が進んで、合理主義が発達した為に、理性を超えた仏教が分かり難いものに感じられるのです。
其処に、私が何時も言っている様に、『本有の無漏の種子』の働きが必要であるのであります。何度も言いました様に、聞薫習と言う有漏の経験だけが、本有の無漏の種子を現行さして、無漏の経験である信心を生み出す道であるのです。
だから、徹底して聞き抜く事です。そうすれば、必ず、無漏の種子が現行して、無漏の経験である信心が得られるのです。
明治維新は、功罪共に在るのでありまして、功の方は、従来華々しく取り上げられてきましたが、罪の方が、見逃されて居ました。其処で、今特に罪を取り上げました。就中、宗教的な一面は、特に見落とされた、重大な問題で有りますので、敢えて取り上げた次第です。今日、日本人の、宗教離れが、憂慮されているのは、正しく、明治政府の宗教政策のせいでありますので、特別に、声を大にして言って置かねばならないと思います。
浄土真宗は、二尊教であります。二尊教は、真と仮と偽の三極構造の宗教で在ります。真と偽が対立する世界観では、真と真が対立して争うことになると申して来ました。仮と
言う選択肢があることによって、争いが避けられるのです。この二尊教に依って、真実が語られる時に平和が保たれるのであります。
仮は、真実を顕す為の課程であります。真は、必ず仮を通して現れるのです。一神教は、真実を強く主張するのですが、真実の主張が反って争いの元になるのであります。この世の存在は、我こそ真実であると主張する事は許され無いのであります。其処に、一神教の、限界が在ることを知らねばなりません。
浄土真宗は、その一神教の限界に気づいて、二尊教の構造を採用したのであります。一神教の世界は、争いを免れられません、その結果、力で自己の主張を押し通うすしか無いのです。静かに、語り合う事が出来ないのであります。
世界の状況は、永く、白人による力の支配に依る統一によって、世界の平和を保持しようと努力して来ました。然し、今は其れが出来なくなりました。今まで白人に依って押さえつけられていた、国々が、一せいに自己を主張し始めたからであります。
第二次世界戦争は、正にその主張の始まりであったのです。その事を、白人も自覚しなければなりません。その為には、日本の役割が大切なのです
。またぞろ、覇権国家の力の争いを繰り替えしては為らないのです。其の事は、誰も否定する事は出来ない筈ですが、冷静に話し合って行くべき問題でありましょう。
その為には、先ず、日本の浄土真宗というものの精神を、世界の人々に聞いてもらう必要があるのです。二尊教と言うものの意味が、世界の人々には理解されて居ないのです、中々、厄介な問題でありますが、日本人の役割がどうしても必要なのであります。
今、世界では、一神教のみが存在していて、日本以外の国には、二尊教は存在していないので、二尊教と言うもの意義は、誰も知らないのです、この儘、一神教のみの世界になれば、核戦争の結果人類は滅亡するでしょう。
日本人が、二尊教の意義をしっかり、世界に向かって発信しなければ為らないのです。度々言うようですが、日本人が、二尊教の意義を言わなければ、二尊教は、世界から忘れられて仕舞います。
その日本でも、二尊教を確実に保って居るのは浄土真宗ばかりで有りますので、浄土真宗の存在が重要なのです。この事を浄土真宗の者は充分心得て、大切にこの『二尊教』を守って行かねばならないのです。
二尊教と言うのは、釈迦弥陀二尊の教えです。弥陀の本願を説く『大無量壽経』の事で、日本に伝えられるまでは、中国で栄えていたものでありましたが、その後衰えて、今日では、世界中で日本にしか存在しないものです。是も不思議な事ですが、善導大師から法然上人に伝えられたものであります。
是に就いては、日本の特別な事情がある様です。即ち、旧モンゴロイドの伝承の宗教であります。日本人の深層意識に培われた、縄文の精神が、日本人の深層に蓄えられて居て、其れが、意識の上に現れて来たものが、法然・親鸞の精神ではないかと考えられるのです。 『神ながらの道』と言われる思想も改竄されていますので、一概には言えませんが、その源を探っていけば、浄土真宗の源泉が見つかるのでは無いかと思われるのです。其の一つの証拠は、『八百萬の神々』と言う発想であります。其れは、仏教の『十方諸仏』と言う発想と軌を一つにしているからであります。
『草木国土、悉皆成仏す』と言う言葉も、大陸伝来の文献には見られ無いと言います。日本人特有の考え方でしょう。
二尊教と言うのは、諸仏と弥陀が力を合わせて、衆生を救うというのです。釈迦は諸仏の一員でありますから、釈迦と弥陀の『二尊教』と言うのです。
私は、この度の戦争に、海軍士官の資格をいただいて、戦争に参加した者です。所が、戦争に参加しながらも、結局、敵の兵隊を一人も殺して居ないのです。誠に、軍人としては役立たずの者でありました。然し、逃げたり、隠れたりした訳ではありません。軍人としての当然の任務は果たして来た心算で在ります。
偶々、結果としてそうなったのであります。其れで、戦死した方々に対して申し訳ない気がずっとして居て、心が晴れない思いを持ち続けて今日まで生きてまいりました。所が、此の頃になって、思いが変わりました。其れは、あの方々は、諸仏にてましましたのだと言う事であります。
私にとって、好ましい方も、好ましくない方も、全て、諸仏にてましましたと言うことで在ります。そうして、念仏の人に成れよと進めて下って居る諸仏なのだと思えるようになりました。随分、勝手な思いであると叱られるかもせれません。叱られてもいいのです。 十方恒沙の諸仏に取り囲まれて、この歳まで生き永らえさして頂きました。有難い事であります。謹んで、十方恒沙の諸仏の御前に御礼申し上げてこの稿を終わります。

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