水琴窟 43

     
水琴窟 43
  問 聖徳太子とは (続き)
  答 法然上人が天台の傘下から離脱して、浄土真宗独立を図ったのは、決して天台宗と覇を争う為ではありません。善導によって確立した『二尊教』としての浄土宗を護るためであります。天台の傘下では、一神教的な雰囲気から離脱出来ないからであります。法然の真意が理解できなかった『良忠上人』(浄土宗、鎮西派、第三祖)達には, 法然が覇を争う爲に、天台に異を唱えているのだと映ったのでしょうか。
 親鸞は、覇を争う爲でないことが理解されて居たのです。『一神教』と『二尊教』には重大な相異が有ることは、当時の仏教界では誰も理解していなかったのです。   
 此れが、法然による浄土宗独立の真相です。法然門下の大半の人々は、法然の真意が解らず、折角の浄土宗独立の快挙を、また元の法華経中心の浄土教に戻したのです。そうした雰囲気の中で、唯一、浄土宗独立の精神を護ったのは、親鸞聖人でありました。
 親鸞が、聖徳太子を『父の如くにおわします。母の如くにおわします。』と詠われる背景には、この様な事情があったのでしょう。 大陸伝来の仏教には一神教の影響が強く影を落としています。それは、大陸では民族の争いが激しく、一神教で無くては生き残れない事情が有ったものと思われま。その為に。仏教も一神教の形がもてはやされたものと思われます。勿論、非一神教である『二尊教』の提唱は、中国の善導に始まります。大無量寿経の伝統が生きていたのです。所が、善導の滅後百年位で、中国では、この善導の提唱は影を没して仕舞います。一神教の勢いが中国大陸ではこれ程強いのです。
 此れを復活させたのは、日本の法然です。日本には、中国伝来とは別のルートから、旧モンゴリアンの宗教が伝えられていて、縄文文化を形成していたのではないかと考えられるのです。幸いにも、日本は島国でありまして、外敵の侵略もなく、比較的に平和な状態が一万年も続いて居ましたから、二尊教の形式の宗教が、静かに発展したものと思われます。
 日本に、中国大陸に無い独特の浄土教が誕生した経緯は、ほぼ右のような次第です。勿論、法然・親鸞と言う優れた人格の存在は無視できませんが、よくも日本に生まれて良かったと思うことで有ります。  和国の教主聖徳王 広大恩徳謝しがたし
   一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ (皇太子聖徳奉讃、11の39)  聖徳太子の名によって受け継がれてきた浄土真宗という教えは、縄文時代以来の日本独自の精神的伝承でありましょう。我々は、この伝承を大切に受け継ぎ、世界に発信してゆかねば為らない大きな使命があります。
 今日、日本にだけ残っている、『二尊教』の伝統は、日本人だけのものではありません。世界の人々が享受すべきものです。世界の人々に広く伝えていくべきものであります。幸い、今日では、コンピュターが発達しましたから、日本語の翻訳も容易になりました。世界の人々との交流を盛んにして行きたいものです。
 聖徳太子の編纂と言われている『三教義疏』も、敦煌の洞窟にもよく似たものがあると言われています、やはり、シルクロードで生まれた思想でしょう、それを聖徳太子の名で
伝えた来た、日本民族の伝承の力には敬服すべきものがあります。 
 中国大陸発生の漢字文化を、瞬く間に咀嚼して、仮名文字を作り出し、巧みに日本語を表記する事を発明した縄文人の能力は、驚くべきものがあります。伝えられているような、文化の程度の低い、未開野蛮な社会ではなかったのでしょう。
 そもそも、縄文土器は、朝鮮には伝わっていないそうです。沖縄から北海道まで、随分広く海を越えて広まって居る、縄文土器が、目と鼻の先にある朝鮮半島には、僅かに、二個しか出土しないそうです。
 当時の海洋渡航技術から見ろと、たやすく渡航可能でありますが。それにも関わらず、土器が伝搬していないのは、恐らく、言語の相異であろうと言われています。日本語と朝鮮語の近似性は、弥生以後の現象で、縄文時代には、朝鮮半島との交流は無かったと言うのです。随分面白い推定ですが、あの個性豊かな縄文土器が朝鮮半島からは出土しないという事実は、驚きで有ります。何か、文化の決定的な違いが有ったものと思われます。   戦後、朝鮮半島と日本の間には、厄介な歴史問題が取り沙汰されていますが、そもそも、朝鮮半島の日本併合も、一方的に日本の横暴では無かったようです。もっと冷静に事実を検証すべきであります。縄文時代にも、日本と半島には文化の落差があったようです。 戦争に敗れて、すっかり自信を失った爲に、言うべきことも言い得ず、外国に言い放題にされて来た、戦後の日本人の態度に反省すべきものがあるのです。
 聖徳太子が、時の隋の皇帝に、対等の交渉を行ったと伝えられていることも、あながち事実無根の事では無いのかも知れません。当時の日本民族のプライドを語るものかも知れません。     
 兎に角、縄文時代の日本文化の真相を検証して、日本民族のルーツを確認すべき時が来ているのです。
 聖徳太子の名に秘められた歴史の真実は、日本人が冷静に探り出して、日本民族のアイ
デンティティーの確率を願うものであります。
 以上、聖徳太子の事跡について色々な事が考えられる事情を述べました。特に縄文時代の歴史が、故意に抹殺されている事について、今後、縄文時代の研究が進むことを期待してこの項を終わります。
    

     

    
   
 
 

     
 

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