水琴窟 14

   水琴窟 十四
 問、仏像を拝む意味は (続き)
 答、 (続き)
 偶像崇拝は根強い人間の迷いでありますから、キリスト教でも、イスラム教でも厳しく禁止したのでありますが、偶像崇拝の意味の追及が不徹底であれば、仏像破壊だけに終わって、真の偶像否定には成らないのではありますまいか。
 人間の要求は、如何に純粋のようでも、必ず自我の執着が付きまとっていますので、不純の要素を払拭することが出来ないのです。人間の要求を超えた願いとは、弥陀の本願以外には考えられません。
 一切の人間の要求を迷妄と判定する如来の智慧光に照らされてのみ、偶像崇拝の迷妄性を自覚できるのです。仏像を拝むのは、その礼拝を通して本仏の心に目覚めるのです。礼拝には、対象がいります。何もない所で礼拝は出来ないのです。
 その為に、キリスト教では、十字架を礼拝の対象としますし、マホメット教では、メッカの方向を礼拝すことに成っています。宗教には必ず礼拝が必要なのです。十字架を拝むのは、偶像崇拝ではないが、仏像を拝むのは偶像崇拝だというのは、偶像崇拝の意味が判っていないのです。本当の偶像崇拝の意味に目覚めて、偶像崇拝の悪執を離れる可きであります。
 もう1つの人間の迷妄は、宗教の観念化であります。観念化とは、現実のありのままを生きないで、解釈して生きることです。
 例えば、病気は嫌なものと決めつけているのです。確かに病気になることは嫌なことに違いはありませんが、今病気になって居る事実は厳粛な事実です。その事実を如何に受けとめて生きるかと言うことは、その人の自由です。
 病気を嫌なものとして、それを避けようとばかり考えて生きるか、事実を事実として受け止めて生きるかは、自由です。もし目の前の事実を、事実として受け止めて生きられれば、嫌なものとばかり考えて、病気を憎んで病気から逃げることばかりを考えてきた人生とは違った人生が開けてくるのです。
 病気を嫌なものと考えるのは人間の解釈です。別の解釈だってあるのです。勿論、別の解釈だって、解釈である限り観念化は免れません。解釈でなく、事実を事実として受け止めることが出来なければ、観念化の悪弊はまぬがれられません。
 我々は、人生の全ての事を、分別し、観念化して受け取っています。宗教と言うのも、仏と言うのも、信心も、救済も皆知性によって考えられた解釈になっているとすれば、それによって救済が成り立つと云う事はありません。只考えただけです。これを宗教の観念化と申します。
 実例を申しますと。渡辺照宏と言う学者が居ました。『仏教』と云う本と、『日本の仏教』と云う本を出版しています、(共に岩波新書)。彼は優れた仏教学者として自他共に認められて居ますが、『日本の仏教』と云う本では、親鸞聖人を目茶苦茶に批判しています。
 『浄土教の流行が我が国に及ぼした影響は大きい。中でも浄土真宗は、親鸞自身の意図とは別に、思いがけない方面に影響した。自力の拒否、戒律の放棄は独善的な、閉ざされた教団を成長させた。前にも指摘したように、いわゆる自力の立場に立つ聖道門の人たちが社会事業に貢献しているのに、真宗の人々は最近までその方面に無関心であった。 
 親鸞の非僧非俗の立場は出家教団の秩序を破壊したのみではなくて、在家信者の基本的義務さえも踏みにじってしまった。
 仏教の在家信者の第一の義務は布施である。次には在家としての戒律を守ることである。布施と戒律とを放棄すれば、在家信者の資格がないことはインド以来の教団の歴史に明らかある。
 このようにして在家信者の資格さえも放棄した親鸞の教をもって在家仏教と呼ぶのは全くの見当違いである。親鸞は彼自身の言ったように僧侶でもなければ在家でもない。
 また一般に浄土教は現実逃避の傾向が強い。日本人が正面から現実の問題に取り組むことを回避する態度を助長したのも、浄土教であった。
 したがって封建的勢力に協力し、社会の近代化を妨げた責任の一端もここにある。こうゆう点から考えても。浄土教は西洋における宗教改革とは正反対の役割を果たしたと言わなければならない。
 この末世的な新興宗教を「日本仏教の精華」と呼ぶような偏見が今でも一部では行われているが、そういうことを言うのは仏教の本質と実践的意義を知らないからである。浄土教の近代化はなお今後の問題であろう』
『日本の仏教』p204 岩波新書』
 この本は現在も読まれて居ます。これを読んだ二葉憲香氏が大変怒りまして、早速抗議の文章を『京都新聞』に乗せました。すると渡辺氏から、それに対する抗議がされます。それに対して又抗議の文章を書くということがありました。所が、あまり激しいやり取りになりましたので、京都新聞が発表しなかったのです。その二葉氏のやりとりは、彼の著作集に出ていますので内容は判ります。
 二葉氏の批判の文章は、
 『歴史的認識の方法によって日本の仏教を、偏見を去って事実をありのままに観察するという著者の言葉には全面的に賛成する。しかし、著者が示した内容はちょうどこの反対で、常識と偏見と誤解が並べられてあるに過ぎない』と言う書き出しで、
 『日本の仏教の特質として、著者は、国家思想・呪術性・死者儀礼・妥協精神・形式主義の五項を挙げているが、このような傾向は、日本の民族宗教を地盤とする疑似仏教の伝統に外ならず、日本仏教の特質は、これらの条件と対決し克服して、呪術を否定し、人間の尊厳と非権力的社会像を指示して来たところにあることを、現代日本仏教研究は指摘している。このような日本仏教の特質をこそ、人間喪失、権力的世界を克服しなければならぬ現代世界に提示しなければならない。
 このような日本仏教分析の立場と成果を知らないために、著者は、社会事業をしたとか無欲であったとかと言うような見方で、日本仏教をきずいた人々を取り上げている。修身の復活の参考になりそうな話ではあるが、仏教の本質とそれがよび起こした実践をとらえることには失敗している』
 また、『著者は明治以来の日本仏教の主張が。客観的判断にもとずく結論ではなくて、多くは感情的な独断にすぎないというが、これが著者の所論の対する適評でもある』と結んでいる。
    「書評、渡辺照宏著『日本の仏教』,二葉憲香著作集、第二巻、p165」

 

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