水琴窟 41

  水琴窟 41 
 問 運命論と縁起の法  
答 世間でば、運が悪かったと悔んだり、運良く助かったと喜んだりしていますが、佛教では、縁起の法と言う教えが説かれています。運と縁どう違うのでしょうか。
 運と言っても縁といっても所詮同じことのように思われますが、どう違うのでしょうか。
 運と言えば、運命の儘に流されて行くことで、遂に愚痴に終わります。縁起の法というのは、佛の智慧による自覚でありますから、自主独立の生き方であります。
 運が悪かったのだと悔んでいるのは愚痴でありますが、運がよかったと言って喜んでいるのも愚痴であります。何故かと言えば、共に智慧による自覚ではありません。その証拠には、幾ら幸運を喜こんでいても、やがて不幸が訪れます、そうして愚痴に終わらねばならないのです。
 運は偶然でありますから、偶然におし流されながら、何処へ行くのか全く判らないのです。ただ運に任せて喜んだり、悲しんだりしているだけであります。考えてみると、私はよくよく運が良い人間であったと思います。その証拠に、九十五歳まで生き延びさして頂いたのです。これは感謝するより外はありません。  
 しかし、どうして九十五歳まで生き延びたのかと言われても、私のせいではありません。私は特に逃げ足が速い人間でもありませんし、勘の鋭い人間でもありません。ただ運が良かったのだと言うより言いようがありません。  
その運が良かったということは、誰にお礼を言えばよいのでしょう。運命を司る神様が有るのでしょうか。そんな神様が有ると言っても無内容なものです。人間が勝手にそう思っているだけの事でしょう。
 縁起の法とは、佛の智慧による自覚であります。佛とは何かといえば、天地を貫く法則です。佛と言うような存在が何処かに居るのではありません。この法則の教えによって自覚される目覚めが、縁起の法であります。
 縁起の法と言うのは、縁は外にあって、因は私の内に在ると言うことですから、私の周囲に起こることは、私の責任であると言うのです。
 三受と言いまして、苦受、楽受、不苦不楽受ですが、その三受共に私の責任であると言うのです。不苦不楽受と言うのは、苦でも無い楽でもないと言うのですが、それも私の責任であrます。
 災害が、遠方で起こっても、私達はお気の毒だとは思っても、只それだけで済まされます。私の責任とは思われません。所が、その出来事を、不苦不楽として受け取っていることが、私の、責任であります。そお云う私であると言うことは免れられません。

     

 
 

  

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