水琴窟 58

問、諸仏と言う事について、
答、諸仏と言う事について、考えることが在ります。其れは、宮城選集を頂いて居て教えられたことです。
『仏教では諸仏と言う事が説かれます。一神教の場合、正と邪の二極に分かれる世界観になります。そして、正か邪かのどちらかに決めつけるようになっていきます。其れに対して、仏教の場合は、そう言う二極ではなくして、諸仏という概念が置かれて居るのです。』
(宮城選集、第十五巻、p535)
一神教には、真と偽の二つしか選択肢が無いのでありましょう。その為、『我は真なり、汝は偽なり』と、自己を肯定して、争う事になります。
諸仏と言うのは、真なるものが働く具体的な姿でありまして、それぞれ、色々の形を取って顕れるのです。百人が百様に顕れて、然も唯一の真実を顕わすのです。
『教学の上では、真・仮・偽と言う三極と言う事になります。この、仮と言う事が大事なのです。真か偽かと言う二極に対して、仮と言う概念を置いているのです。如何なる物も絶対的なものではない。然も其処には、同じ願いが展開して居るのです。同じ願いが、それぞれのすがたを取ってあらわれているのです。
それぞれに具体的な姿と言うものは、何処までもその時その場その存在においてと言う事であって、絶対化すべきものでは決してない。
仮と言うのは、つまり具体相、具体的な存在です。具体的と言う事は、ある時、ある所に、あるものとして在ると言う事で、そこに具体性を見る訳です。』
『その時、其処における、そのもののありようであって、其れをもって、全ての時に、全ての場、全ての存在に、全部押しつけていく訳にはいかない。
そこに、それぞれの現れ方、それぞれの顕わし方が在る。其れが、仮と言う概念です。
ですから、真から仮への間に、無限の展開があると言う捉え方だと言ってもいいでしょう。』
『諸仏それぞれが、それぞれの分に於いて、真を表現し、偽を明らかにして居られます。』
(同上、p536)
真理は、唯一つでも、其れを表す爲には、様々な立場があって然るべきでしょう。私の主張のみが真実であると固執すれば、他のものは偽になるのです、其処には、自己主張同志の争いが始まります。それが、今日の争いの原因であります。
但、弱いから、妥協して他に従うのではなく、それぞれの立場が在ることを認めて、協調しあって生きる、生き方が在るのでしょう。其処に、諸仏の存在を認める世界が在るのです。
諸仏は、それぞれの世界で弥陀の功徳を讃嘆します。釈尊も諸仏の一人でありますが、釈尊は、特に、五濁悪世の但中に立って、弥陀を讃える役目を担って居るのです。弥陀を讃えると言う事は、阿弥陀の世界に行けと勧めるのです。其れを『発遣』と言うのです。  諸仏の発遣が無ければ、弥陀の本願と言うのも、話になります。観念論になるのです。弥陀は偏に『我に来たれ』と『召喚』するのですが、諸仏は、口々に『弥陀に帰れ』と発遣します。此処に、『二尊教』の妙趣が在るのです。
諸仏は、決して『我に来たれ』とは言わないのです。口を揃えて、『阿弥陀に帰せよ、我も共に行かん』と言うのです。其処に、諸仏の役割が在るのです。此の、二尊教こそが、宗教の健康性を保つ原理で有ります。
一神教は、厳しく法の原理を説くのでありますが、その厳しさが、法の権威となり権威主義に陥いる原因になるのです。権威主義の前には、絶対服従が要求され、信仰は、神への絶対服従を要求し、神への『恐れ』となります。是れは、信仰の純粋性を保つためには、有効で有りますが、権威の前に絶対服従が求められる事によって、弱者の声が消されて行くのです。弱者とは、苦悩の衆生と言う事です。
『苦悩の有情を捨てずして』と言う『弥陀の本願』との相異です。弥陀の本願は、飽くまでも『苦悩の衆生を捨てず』という願に生きるのです。聖道門は、賢者の爲の教えでありまして、勢い、弱者の嘆きの声は切り捨てられました。
その為、『聖道門をさしおきて、選んで、浄土門に入れ』と言われるのです。聖道門は、真実の教えではありますが、其処から漏れる者があるのです。万人の爲の教えではありません。漏れる者とは、弱者です。この弱者を救う道は、浄土の教えしかありません。
弱者とは、誰のことでありましょうか。若し弱者が、自分以外の他者であれば、お気の毒とは思っても、そのまま見過ごして通れます。しかし、弱者が、自分のことであれば、そのまま通り過ぎる事は出来ません。誰のことかをよくよく考えてみる必要があるのです。
弥陀の本願は、如何なる弱者も漏れること無く救う道で有ります。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり
(正像末和讃、11の35)
私の父は、この和讃をとなえる時には、必ず涙ぐんで居たと、大森先生がよく言われていました。『若い頃は、此の老僧は、随分涙もろい人だなと思って居たが。この頃になって、やっと老僧の心情が解るようになった。』と述懐して居られました。
『苦悩の有情をすてずして』と言う言葉が、受け取られる様に成るには、人生の経験を経なければ成らないのです。人生の経験を経て、弱者とは、我が身の事であったと頷ける様になって、初めて、弥陀の本願が、我が身の爲に興こされていた事に気付くのであります。
『真か偽か』と言う二極対立の激しい人生観でなく、『真・仮・偽』と言う、緩やかな、三極の人生観に立って生きる事が与えられている事に、大いなる幸せを感ずることであります。
諸仏の存在を許すことに、二尊教の特色が有るのであります。一神教の厳しさと、二尊教の緩やかさと、夫々、趣きは、異なりますが、どちらが良いかは各自が、自分の責任で選ぶべきでしょう。
諸仏の存在を認めることは、阿弥陀仏の特別のお心であります。諸仏は夫々の立場に立って、阿弥陀仏を讃嘆します。阿弥陀仏は諸仏を『我が善き親友』として遇します。決して諸仏を支配しようとは為ないのです。これが、釈迦弥陀二尊教の原則です。
二尊教に於いて、初めて、健康な宗教と言えるのです。一神教は、強い力を持っていますが、同時に、恐ろしい支配力を発揮して、権威主義を振り回すのです。
覇権国家が、弱い国を征服して強大になるのも、この権威主義の構造の故です。今、覇権国家同志の覇権争いが、人類滅亡の運命を、引き起こそうとしている事実に、我々は、目を開くべき時であります。

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