「水琴窟」カテゴリーアーカイブ

水琴窟 47

水琴窟 47

水琴窟 47
問 『いのち』は誰のもの
答  安心決定鈔に『天親菩薩の「往生論」に「帰命尽十方無碍光如来」と言えり、深き法も浅き譬えにてこころえらるべし。たとえば日は観音なり、その観音の光をば、みどり子より眼に得たれども、稚き時は知らず,少し小慧しくなりて、自力にて「わが目の光にてこそあれ]と思いたらんに、よく日輪の心を知りたらん人「己が目の光ならば夜こそ物を見るべけれ、速やかに元の日光に帰すべし」と言わんを信じて、日天の光に帰しつるものなれば、わが眼の光やがて観音の光なるが如し。帰命の義もまた斯くの如し。知らざる時の命も阿弥陀の御命なりけれども、稚き時は知らず、少し小慧しく自力になりて、「我が命」と思いたらんをり、善知識「もとの阿弥陀の命に帰せよ」と教うるを聞きて、帰命無量寿覚しつれば「わが命無量寿なり」と信ずるなり。』(28の15)
と説かれてあります。
『わが命』と思うのが一般の常識ですが、浄土真宗では『阿弥陀の御命』を頂いて生きているのであると教えるのです。
わが命であれば、私の思い通りになる筈ですが、命の事実は、私の思い通りには決してならないことは、先刻承知のことであります。
私の『いのち』は、如来より賜ったものでありますから、大切に為なければなりません。そうして、因縁が尽きたらお返しするのであります。唯それだけのことですが、其れが中々、頷かれないのです。
所で、『如来より賜った命』と言うことは、どう言う命なのでしょうか、いのちを賜ると言っても,具体的に何を賜るのか一向にはっきりしません。
『いのち』とは、私が『今』生きている事実です。所が、『今』という事実は、私に於いては、何時も瞬間に過去に流れてしまって、捉え所が無いのです。
過去は思い出に過ぎません。どんな美味しい食べ物でも、食べてしまえば、『美味しかった』と言う『思い出』だけに過ぎません。
日常生活では、『今』と言う時間は『過去の思い出』として在るだけです。しかし、今確かに、生きているではないかと言います。実は、その『今』が問題なのです。
日常の今は、常に瞬間に過去に流れて行くのですが、過去に流れない『今』が在るのです。其れを『永遠の今』と申します。
永遠の今とは、永遠なるものが、日常の今の中に入ってきて充満することです。『永遠なるもの』と言うのは、真如であり,如来であります。真如が私の中に入るとは、どう言うことでしょうか。
善導大師は、『応心即現』と言いました。観経の第八像観の言葉です。その前に『安楽の慈尊、情を知るが故に東域に影臨す』と言う言葉がありました。『情』と言うのは、曇鸞の『情願』を『情』と縮めて言ったのです。『情』とは私達の心の底に隠れて居る『真実なるものに逢いたい』と言う切実な願いであります。この情願に目覚めた者の前に現れるのが阿弥陀如来であります。
観経には『是心作佛、是心是佛』と言います。私にはそんなものは在る筈が無いと、思って居ましたが、佛の説法を聴いて、私にも情願が在ることに目覚めた者に、その情願に応じて、阿弥陀如来が現れるのです。それを『他力回向の信心』が成就為ると言います。其れを『今』の成就と言います。
その『今』を、歎異抄では、『念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち、攝取不捨の利益に預けしめたもうなり』と言いました。この『時』が、『今』と言う時であります。.
『虚無の身』と言うのは、機の深信の意味であると言われます。即ち『信外の軽毛』と善導が言いました様に、吹けば飛ぶような存在でありますが、その軽毛に、真実信心を賜ると,『無極の体』と言う、『絶対無限の徳』が成就するのです。其れを『法の深信』と申します
この『機法二種の深信』は、二種一具と言われて、離れる事は有りません。永遠なるものが来たって充実すると言うのは、虚無の身の上に、無極の体が成就する事です。
平等性智が得られると言うことは、二種深信の成立です。此れを離れて『平等性智』はありません。一神教では成就し得なかった、『権威主義の克服』と言う平等性が、初めて成就する道が開かれたのです。
我々衆生にあっては、過去、現在、未来に渉って『出離の縁有ること無し』と如来の前に頭を下げきった所に開かれるものが、平等性智であります。
決して、『我は信心を得たり』と高上がりした所に開かれるものでは有りません。この平等性智こそ、どんな愚かな悪業の衆生も、平等に仏となる事が出来る唯一の道であります。それ故に、阿弥陀仏は、衆生の上に君臨する事無く、『我が善き親友なり』と衆生を攝取不捨するのです。
親鸞聖人が『御同朋、御同行』と言われたのは、正にこの阿弥陀如来の御心を頂かれて、生きられたからで在ります。
『平等力に帰命せよ』〔讃阿弥陀仏偈和讃)と親鸞聖人は和讃に詠います。此れは、
『末那識を転じて、平等性智を得る』と言う佛経の願いに応答した生きる姿勢で在ります。
『末那識を転じて、平等性智とする』と言う佛道の目的が、見事に成就した姿が,  『念仏成仏』の浄土真宗で在ります。
如来の御いのちを頂いて生きると言う事は、お念仏を賜って生きることであります。

水琴窟 32

水琴窟 32 

水琴窟 32
問、篤く、三宝を敬へ
答 これは、聖徳太子の十七条憲法の言葉であります。今日、聖徳太子は架空の人物であろうという説が言われています。しかし、この十七条憲法を書いた人物がいることは確かな事実です。その人を、仮に、聖徳太子と呼んでおいてよいと思います。
第二条に置かれている『篤く、三宝を敬え、三宝は佛・法・僧なり、』の言葉は、その後永く、今日まで、日本人の深層意識に留まって来ました。
私は、仏教の教えを顕す唯一の言葉である『篤敬三宝』の言葉について、『仏』と『法』を敬う事に就いては異論はありませんが、『僧』を敬うと云う事はどういう意味であろうかと疑問に思って居ました。
『僧』とは『サンガ』であると言われます。印度では、元々、同業組合をサンガ゙と呼んでいたと云いますから。それを仏教も採用したのだろうと思っていたのです。サンガは『和合僧』と翻訳されていて、仏教徒の団結を促す為であろうと思っていました。従って、『破和合僧』の罪が大切に説かれるのも、団結を乱す罪であろうと思っていました。
所が、この『破和合僧』には重大な意味があることを知らされたのです。即ち、サンガに帰依すると云う事が無く、それに背くことは、仏教を破滅させる事になるのです。
『破和合僧』に依って、仏教は弘まら無くなり、やがてこの世から消えて行くことに成るのです。仏教が個人的に信仰されているばかりでは、それは二乗地の信仰です。二乗地の信仰は、独りよがりの信仰で、自己満足に終わり、他に伝えられません。
仏教は、声聞によって始まります。声聞とは、只管に聞法に励む者です。声聞が聞法を重ねて縁覚(独覚)になります。独覚とは、仏法が次第に、よく解るように成る事です。声聞と縁覺は立派な仏教者なのです。しかし、この世界に留まる限り二乗地と言われます。
仏教が二乗地に留まる限り、他に伝えられることはありません。その人の信仰は、個人的信仰で、自己満足に終わるからです。これが『二乗地』は、菩薩の死であると言われる所以です。
竜樹が二乗地に堕する事を菩薩の死であると言って、厳しく戒めたのは、二乗のみでは仏道が滅びるからです。若し仏教徒が、『声聞』と『縁覚』ばかりに成れば、仏教は滅びます。
しかし、今でも二乗と言われる仏教が、東南アジアに立派に生き残っているではないかと言う反論があると思います。それに就いては、説明を要しますが、東南アジアの佛教は、大乗仏教ではありません。大乗仏教から見れば、多分に未成熟の仏教であります。
そもそも、小乗仏教と言われるものは、仏教の基礎であります。何万年と言う長い年月をかけて、人類が蓄積して来た叡智の基礎段階に在るものです。従って、此の基礎段階を無視したり、否定する事は許されません、しかし、其の基礎の上に築かれた思想が大切なのです。
小乗仏教は、戒律を守ると言う強権主義によって維持され生き続けています。大乗仏教は、この戒律厳守と言う教権主義を捨てたのです。即ち、破戒無慚の者も包もうとしたのです。この為に、『サンガに帰依する』と言う、法則を生み出しました。大乗仏教が、教団を維持し、その精神を永遠に継続させる為には、サンガが必要なのです。
サンガに帰依すると云う事は、同朋を尊敬する事です。サンガと言っても、所詮、人間の集まりですから、其処にはいろんな人が集まっています、従って、当然、意見の相違が起こります。その時、互いに相手を批判するだけでは、サンガは成立しません。争いばかりに成り、やがて分裂してしまいます。
キリスト教等が、神の罰を厳しく説いて、神の権威を強調するのは、教団を維持する為でありましょう。仏教は『神の権威』を主張しませんから、教団維持のために別の方法を考えなくてはなりません。その為に『サンガに帰依せよ』との教説を生み出したのであります。
しかし、人間の集まりには、必ず意見の相違が生じ、争いが始まります。それを収める為にはどうすれば良いのでしょうか。これは中々難しい問題であります。
『サンガに帰依せよ』との教えは、大乗仏教では、真に『仏と法に帰依する者』は、自ずから『僧に帰依する』と言うのです。従って、二乗の教えは、自己満足に終わって、真の仏道では無いと言うのです。
仏教に入る為には、必ず声聞・縁覚の段階を潜らなければなりません。仏教の基礎段階であると言うのは、必ず、その段階を潜らねばならないと云う事です。所が、其の段階に留まってはならないと言うのです。
仏教が、小乗仏教から大乗仏教に発展したと言う歴史の事実には、人類の叡智の積み重ねによって、宗教の意義の深化が行われたのです。しかもその思想の深化を、絶やす事無く後世に継承していく為の重大な法則を見つけたのです。この法則を発見した事により、仏教が強権主義を克服して、然も、永遠に伝承される道が開けたのです。
教団を維持していくためには、教権に依る強い束縛が必要なのです。この教権によって団結が維持されるのですが、この教権が強ければ強い程、団結は維持されますが、半面、個人の自由は束縛されます。
一神教は、強い教権によって維持されています。信仰は、『神への恐れ』であると言われます。『最後の審判』と言う恐れが、強く信者にのしかかっているのです。イスラム教徒の『自爆テロ』は、『神の最後の審判』に依って支えられています。
私は、特攻隊に志願した人間ですが、その時の心境は、『俺たちが死んでやらねば、弟や妹たちが助からない』と言うものでした。特攻隊員同士で幾たびも議論し合って、結局落ち着く所は、弟や妹の為に死ぬと言う結論でありました。
『お国の為に』という内容は、往時の私達には、結局、其れしか考えられなかったのです。イスラム教徒の信条とは、随分違っていたと思います。
兎に角、一神教は教権主義で維持されていると云う事です。それに対して、仏教は、教権主義を認めませんから、教団を維持するための方法が無いわけです。これは宗教教団にとって、大変な問題であります。
其処に、『サンガに帰依する』と言う思想が生まれました。サンガに帰依する前に、先ず、佛と法に帰依する事が要求されます。佛と法に帰依する事は、仏法に帰依する事です。仏法に帰依する事は、自身の『機の深信』に目覚める事であります。
業縁に押し流され、業火に焼かれている我が身の事実に徹する心は、同時に周囲の一切のものが、自他共に業火に焼かれている存在であることに気付くのです。此処に、『共に是れ凡夫のみ』(41の4、聖徳太子、十七条憲法、第十条)と言うい自覚が生まれるのです。

聞法する者は、仏と法に帰依する事は当然ですが、サンガに帰依することが無いなら、大乗仏教が成立しないのです。それは二乗の集まりではありましても、大乗仏教にはなりません。
サンガと雖も凡夫の集まりであります。従って、愛憎善悪の渦が巻き起こります。その時、『愛憎善悪の心を浄土に流し、念仏申せ』との師教が思い出されます。誠に、愛憎善悪の心を浄土に流して念仏する道が有ったのです。
サンガに集まる人に対して、不満や批判の思いが起こる時、それをあながち止めよと言うのではありません。議論する時は徹底して議論すべきです。其の上で、愛憎善悪の心を浄土に流して念仏するのです。
『貴方も、私も、宿業に流され、業火に焼け爛れて居る存在であります。しかし、必ず仏に成る可き身であります。』と何処までも、互いに信じ合って、念仏するのです。其処に、『サンガに帰依する』と言う教えが生きて来るのです。
それは大変な事のようですが、真に仏法に遇い得た人には、それが出来るのであります。此処に。サンガに帰依するという事が、仏道成就の必須の条件であると言わねばならい意味がありました。
釈尊在世に時代には、仏陀が現存されていましたから。仏道が成就していました。しかし、仏の滅後になると、釈尊の人徳の影響が衰えて、仏教が当に滅亡しようとしたのです、その時、サンガの意義に目覚めたのが、大乗仏教の先輩たちでした。この先輩たちの目覚めが無かったら、仏教はこの世から姿を消していたことでしょう。此処に、『篤く、三宝を敬え』と言う教えが大切に伝えられ、大乗仏教として、三国に流布して今日に至りました。
『厚く三宝を敬へ』と言う聖徳太子の精神は、三国・七祖を貫いて今日まで伝承されて来ました。この後も、永遠に人類を救う鏡となって頂くよう、我々仏教徒が、此のサンガに帰依し、讃嘆し、護持して行かねばなりません。

水琴窟 59

問 一神教のみでは
答 世界の宗教は、一神教優位になって居ます。このまま、一神教のみが優位になって、一神教のみの世界に成れば、人類は、滅亡する恐れがあると説き続けて来ました。
此処に、二尊教と言う宗教があることを、是非、世界に訴えねばならない理由があるのです。
一神教は、真か偽かと言う二者択一の選択しか出来ない世界観であると云いました。其れに対して、仏教は、真、仮、偽と言う三つの選択肢を持つ世界観を堅持して居るのです。
仏教の、真、仮、偽の選択肢の世界観は、釈迦、弥陀、諸仏が共存する世界であります。是れを、二尊教と言うのは、釈迦は、諸仏の一員であるからです。諸仏とは、真実が、虚偽に働き懸ける具体的課程を表して居るのです。具体的働きは、夫々が、夫々の形を取って働くので、色々の姿を取って居ても好い訳です。全体を一つに統一する必要は無いのです。
釈迦は、特別に娑婆世界という、五濁悪世に働き懸ける使命を持って、この世に出現した仏でありました。五濁悪世は、殊の外、仏法が聞き難い所でありますので、極難信の法を説くと言われて居ます。従って、この娑婆世界に生まれた衆生は、特別に、釈迦の御苦労を身に染みて感謝申し上ねば成らないのです。
何故一神教のみの世界になれば人類が滅びる事になるのかと言うと、真か偽かと言う選択肢しかない世界では、『我は真なり』と云えば、我と異なる考えの者は、皆、偽ということに成ります。その為、『我こそ、真なり』と言う主張を互いに言いはる所に、争いが生まれ、やがて戦争になるのであります。
所が、今日の戦争は、兵器が物凄く発達して、勝負が着かなくなるのです。此れからの戦争は、勝利者が居ない敗者ばかりの戦争になるだろうと言われています。敗者どころか、人類滅亡の戦争に成るに相違ありません。
仮と言う選択肢があれば、『貴方も真を表す爲に努力して居るのですね』と言うゆとりが生まれてくるのです。仮と言う世界は、真を表す爲の課程です。真は、必ず仮を通して表現されるものですから、其処に、和やかに、相手の意見を聞いて行ける世界が展開するのです。
此れが、二尊教が持つ素晴らしい世界であります。日本は、この二尊教の『浄土真宗』を元にして世界に訴えるべきでありましたが、残念ながら、明治以来の戦争に勝利を得たために、のぼせ上がって、戦争ばかりに力を入れて、浄土真宗を無視してきました。
今こそ、浄土真宗に帰らねばならない時であります。しかし、戦争ばかりに走り続けたために、すっかり、宗教の重要性を忘れて仕舞いました。折角、二尊教と言う宗教を与えられながら、宗教無視の生活に明け暮れして居ることは、誠に、勿体ない事であります。
外道とは、真実が何か解らない世界で有ります。皆がよってたかって此れが真実だと叫んで居ますが、全く決め手が無いのです。その外道の世界から、仏教の世界に入って、初めて、此れが真実だと言えるものが見付かったのです。
所が、真実は明らかに示されたのですが、真と偽とが対立するだけでは、真実と真実との主張の争いになります。其処に、もう一つの転回が必要なのです。その転回が浄土教への転回であります。
浄土の教えは、真と仮と偽の三つの選択肢を持つ教えです。その教えは、本願念仏の教えでありますが、本願を信じて念仏申す、この道に於いて、初めて、皆の人々が穏やかに、暮らせる世界が成就されるのであります。
所が、私達が、 真に救われる爲には、もう一つの転回が成されなければ成らないのです。其れは、我執を超えるという問題で有りました。
我々は、心の奥底に、末那識という心の働きを持っています。其れは、自他区別識と言われて、自他を瞬時に区別して身の安全を図る機能でありまして、そのお陰で今日まで生き延びて来られたのであります。しかし、この働きの故に、自我の固執という問題が起こるのです。
この自我の固執(我執)によって、弥陀の回向の念仏の功徳を、自の善根とするのです、『私は念仏しているから良いが、あの人は念仏為ないから駄目だ』という心が抜けないのです。この我執は、根深いものでありまして、死ぬまで無く成らないもので有ります。
如来の智慧光の前に引き出されて、頭を大地に下げきって、謝るより外に、施し用の無い代物で有ります。此れを、『如来無視』、『佛智疑惑の罪』と申します。
この三つの転回を潜って、初めて私達の救いが、見事に成就されるのでありますから、私達は、この三つの関門を必ず潜る必要があります。
これが、『往生三度になりぬるに、この度特に遂げ易し』という法然和讃の意味であろうと思われるので有ります。
法然上人は、『源空みずからのたまわく、霊山会上にありしとき、声聞僧にまじわりて、頭陀を行じて化度せしむ』と言われていたと言います。此れは、先ず、外道を捨てて、仏道を求めたと言う意味であります。そうして、聖道門の修行をされたのが、第一の転回でありました。
更に,日本の国に生まれて、選択本願念仏集を著わし、第二の転回をなさったのです。その専修念仏の一道には、更に、第三の関門があることを見出し、念仏道に一生を捧げきって、目出度く、往生の素懐を遂げられたのであります。
『この度特に遂げやすし』との御述懐は、其れを語って居られたのでありましょう。
法然上人の此の御述懐を、態々和讃に作って述べられる親鸞聖人の御深意は、聖人の御自身の心境でも有りましょう。師弟共に同一の心境に住していられる風光が見られるのであります。
この世に生まれて、此の三つの転回を遂げて、往生浄土の素懐を遂げる事が出来ろ事は、何物にも代えることが出来ない幸せであります。仏法を聞き得たという事は、此の三つの関門を、必ず潜り抜けて、真報仏土に往生する事であります。若し途中で足踏みして前に進めなくなれば、往生の大利益を失う事になります。
往生は歩みであります。留まれば,其れがどんなにこころよい世界であっても、往生ではなく、仮城になるのであります。心して歩み続けねばなりません。
私も、法然、親鸞両聖人の顰み倣い、せめて真似だけでも、『往生三度になりぬるに、この度特にとげやすし』と、高らかに歌いながら、この世を去って行きたいものと思って居ます。

水琴窟 58

問、諸仏と言う事について、
答、諸仏と言う事について、考えることが在ります。其れは、宮城選集を頂いて居て教えられたことです。
『仏教では諸仏と言う事が説かれます。一神教の場合、正と邪の二極に分かれる世界観になります。そして、正か邪かのどちらかに決めつけるようになっていきます。其れに対して、仏教の場合は、そう言う二極ではなくして、諸仏という概念が置かれて居るのです。』
(宮城選集、第十五巻、p535)
一神教には、真と偽の二つしか選択肢が無いのでありましょう。その為、『我は真なり、汝は偽なり』と、自己を肯定して、争う事になります。
諸仏と言うのは、真なるものが働く具体的な姿でありまして、それぞれ、色々の形を取って顕れるのです。百人が百様に顕れて、然も唯一の真実を顕わすのです。
『教学の上では、真・仮・偽と言う三極と言う事になります。この、仮と言う事が大事なのです。真か偽かと言う二極に対して、仮と言う概念を置いているのです。如何なる物も絶対的なものではない。然も其処には、同じ願いが展開して居るのです。同じ願いが、それぞれのすがたを取ってあらわれているのです。
それぞれに具体的な姿と言うものは、何処までもその時その場その存在においてと言う事であって、絶対化すべきものでは決してない。
仮と言うのは、つまり具体相、具体的な存在です。具体的と言う事は、ある時、ある所に、あるものとして在ると言う事で、そこに具体性を見る訳です。』
『その時、其処における、そのもののありようであって、其れをもって、全ての時に、全ての場、全ての存在に、全部押しつけていく訳にはいかない。
そこに、それぞれの現れ方、それぞれの顕わし方が在る。其れが、仮と言う概念です。
ですから、真から仮への間に、無限の展開があると言う捉え方だと言ってもいいでしょう。』
『諸仏それぞれが、それぞれの分に於いて、真を表現し、偽を明らかにして居られます。』
(同上、p536)
真理は、唯一つでも、其れを表す爲には、様々な立場があって然るべきでしょう。私の主張のみが真実であると固執すれば、他のものは偽になるのです、其処には、自己主張同志の争いが始まります。それが、今日の争いの原因であります。
但、弱いから、妥協して他に従うのではなく、それぞれの立場が在ることを認めて、協調しあって生きる、生き方が在るのでしょう。其処に、諸仏の存在を認める世界が在るのです。
諸仏は、それぞれの世界で弥陀の功徳を讃嘆します。釈尊も諸仏の一人でありますが、釈尊は、特に、五濁悪世の但中に立って、弥陀を讃える役目を担って居るのです。弥陀を讃えると言う事は、阿弥陀の世界に行けと勧めるのです。其れを『発遣』と言うのです。  諸仏の発遣が無ければ、弥陀の本願と言うのも、話になります。観念論になるのです。弥陀は偏に『我に来たれ』と『召喚』するのですが、諸仏は、口々に『弥陀に帰れ』と発遣します。此処に、『二尊教』の妙趣が在るのです。
諸仏は、決して『我に来たれ』とは言わないのです。口を揃えて、『阿弥陀に帰せよ、我も共に行かん』と言うのです。其処に、諸仏の役割が在るのです。此の、二尊教こそが、宗教の健康性を保つ原理で有ります。
一神教は、厳しく法の原理を説くのでありますが、その厳しさが、法の権威となり権威主義に陥いる原因になるのです。権威主義の前には、絶対服従が要求され、信仰は、神への絶対服従を要求し、神への『恐れ』となります。是れは、信仰の純粋性を保つためには、有効で有りますが、権威の前に絶対服従が求められる事によって、弱者の声が消されて行くのです。弱者とは、苦悩の衆生と言う事です。
『苦悩の有情を捨てずして』と言う『弥陀の本願』との相異です。弥陀の本願は、飽くまでも『苦悩の衆生を捨てず』という願に生きるのです。聖道門は、賢者の爲の教えでありまして、勢い、弱者の嘆きの声は切り捨てられました。
その為、『聖道門をさしおきて、選んで、浄土門に入れ』と言われるのです。聖道門は、真実の教えではありますが、其処から漏れる者があるのです。万人の爲の教えではありません。漏れる者とは、弱者です。この弱者を救う道は、浄土の教えしかありません。
弱者とは、誰のことでありましょうか。若し弱者が、自分以外の他者であれば、お気の毒とは思っても、そのまま見過ごして通れます。しかし、弱者が、自分のことであれば、そのまま通り過ぎる事は出来ません。誰のことかをよくよく考えてみる必要があるのです。
弥陀の本願は、如何なる弱者も漏れること無く救う道で有ります。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり
(正像末和讃、11の35)
私の父は、この和讃をとなえる時には、必ず涙ぐんで居たと、大森先生がよく言われていました。『若い頃は、此の老僧は、随分涙もろい人だなと思って居たが。この頃になって、やっと老僧の心情が解るようになった。』と述懐して居られました。
『苦悩の有情をすてずして』と言う言葉が、受け取られる様に成るには、人生の経験を経なければ成らないのです。人生の経験を経て、弱者とは、我が身の事であったと頷ける様になって、初めて、弥陀の本願が、我が身の爲に興こされていた事に気付くのであります。
『真か偽か』と言う二極対立の激しい人生観でなく、『真・仮・偽』と言う、緩やかな、三極の人生観に立って生きる事が与えられている事に、大いなる幸せを感ずることであります。
諸仏の存在を許すことに、二尊教の特色が有るのであります。一神教の厳しさと、二尊教の緩やかさと、夫々、趣きは、異なりますが、どちらが良いかは各自が、自分の責任で選ぶべきでしょう。
諸仏の存在を認めることは、阿弥陀仏の特別のお心であります。諸仏は夫々の立場に立って、阿弥陀仏を讃嘆します。阿弥陀仏は諸仏を『我が善き親友』として遇します。決して諸仏を支配しようとは為ないのです。これが、釈迦弥陀二尊教の原則です。
二尊教に於いて、初めて、健康な宗教と言えるのです。一神教は、強い力を持っていますが、同時に、恐ろしい支配力を発揮して、権威主義を振り回すのです。
覇権国家が、弱い国を征服して強大になるのも、この権威主義の構造の故です。今、覇権国家同志の覇権争いが、人類滅亡の運命を、引き起こそうとしている事実に、我々は、目を開くべき時であります。

水琴窟 57

問、 深層意識
答、 私は、偶々。大谷派の寺院に生まれました。その為、子供の時から仏法を聞かねばならないと言う事は心得て居ました。今思い返して見れば、其れは、よくよく、宿善に恵まれて居た結果でありました。
父も、母も、仏法の志は篤い人でありましたので、自然に、仏法は聞くものだと、思うようになったのです。是れは、大変な事であったと思うのです。今日、仏法を聞くという事は、容易な事ではありません。
遠く、お釈迦様から始まった、仏教の歴史は、印度から、中国大陸を伝わって、朝鮮半島を経由して日本に伝えられたのですが、其れは、文字を伴って伝えられた仏教でありました。
其れとは別の、海上ルートを通って日本に伝えられたものがある様です。其れは、縄文文化と言われているものであります。今日では、その全容は判りませんが、旧モンゴリアンと言われる人々によって伝承されたものである様であります。
その伝承は、アメリカ大陸にまで伝えられて居て、アメリカ原住民の神話に見られるものです。それを、アメリカでは、グレート・スピリットと名付けたと言われています。
日本の、阿弥陀如来と同じ神話に由来するものの様です。日本における、阿弥陀如来の信仰は、縄文時代以来の信仰が、深層意識となって、法然や親鸞の上に顕れたものでは無いかと考えられるのであります。
深層意識というものは、深く人間の心に根ざして居て、意識していないのにその人を動かして居るものです。
梅原猛と云う方が、生前『日本の深層』と言う本の中に力説して居るのです。この梅原説は、注目に値するものであります。今後、縄文時代の研究が進んで、梅原説が証明されることを願う者でありますが、証明は難しいかも知れません、証明されなくても有力な仮説として注意されて良いと思います。
日本民族の深層意識の中に蓄積されていたものが、聖徳太子の名に代表されて、親鸞の『浄土真宗』として、地表に顕れたのでは無いかと思われるのです。この日本民族の深層意識となって居る精神は、今日も我々日本人に保たれている心でありまして、後に日本列島に侵入してきた『弥生人』によって嫌われ、歴史の上からは、抹殺排除されましたが、どっこい、根強く生き残り、今日まで日本人の心の中に、生き続けて居るのです。
これが、親鸞の説いた『浄土真宗』であります。聖徳太子の名のもとに伝えられて居る、『十七条憲法』の精神は、『篤く三宝を敬え』であり、『和を以て貴と成す』で有ります。三宝を敬うと云う事は、仏教の精神以外には、人類が永遠に平和を保って行く道は無いと言う事です。是れは、全人類に向かって明らかにすべき事であります。
この事を、嘗て、暁烏敏師が戦前に提唱したのです。戦後の混乱の中で、この提唱は、うやむやになり、忘れ去られて仕舞いましたが、今こそ、もう一度提唱しなければ成らない問題であります。
仏法は、権力や、威力で押しつけるものではありません。静かに話し合って納得されるべきものです。そんな悠長なことを言っても駄目では無いかと言われるかも知れませんが、仏教は元来そうしたものでありました。その為に、仏教は滅んで行った国もありますが、どっこい頑張って生き残っている地方もあるわけです。真理と言う者は、常にその様な形で生き延びていくものなのでしょう。
日本は、その仏教が生き残っている貴重な国で有ります。是れは偏に、浄土真宗のお陰であります。
浄土真宗以外には、真に人間の救いを成就する道は無いのです。随分思い切った事を云うようですが、浄土真宗が見出されたお陰で、聖道門の意義も見出されたわけです。聖道門が悪い訳ではありません。聖道門は、浄土門の爲の要門であります。
要門は、道を得るために、如何しても潜らねば成らぬ、必要な通路であります。故に、浄土真宗に到るための必要な課程で有るのであります。
私が、仏道成就の爲には、『三つの関門』を潜らなければ成らないと云うのは。人間が救われるための、必須の法則であるからであります。其れは、日本に於いて、法然、親鸞に依って見出された法則でありました。
インドで仏教が衰えたのは、大乗仏教は生まれましたが、浄土の教は充分完成し得なかったからで、浄土真宗までは到達出来なかった爲であります。中国でも現在、仏教は見失われています。矢張り、善導大師までは伝えられた浄土教が、善導以後途絶えたた爲であります。
日本に於いてのみ、仏教が生き残れたのは、まさしく、浄土真宗が仏教を支えたのであります。日本に於いて、初めて、浄土の教えが、晴れて天下に真の姿を表したのであります。
これは、『三つの関門』を潜ってこそ、『往生浄土の道』が、完成される事を証明するものであります。浄土真宗は、まさしく、人間の救いの道を、はっきり指し示すもので有りました。我々は、遠慮する事無く、この事実を海外に発信すべき時が訪れて居る事に目覚めなければ成りません。
戦前は、武力で日本精神を世界に伝えようとしました。其れは明らかに間違いでありました。人間は、武力によって納得するものではありません。話し合いに依って時間を懸けて、言い分を聞いてもらうより道はありません。其れには、時間と辛抱が必要です。
成功するかしないかは判りません。然し、それより外に方法は無いのであります。所が、人はせっかちですから、この方法には耐えられなくなり、いきなり、他の方法を用いようとするのです。其れが世界紛争の原因です。
この儘、世界紛争に巻き込まれて、人類は滅亡して行くのでしょうか。悲しいことであります。人類滅亡の末路を見ることは、悲しいことでありますが、是れも、因縁の然らしめる所でありますから、何とも、致し方の無い事であります。念仏して死んで行くまでの事であります。
兎に角、浄土真宗に依らねば、世界の平和は成就しないのでは無いかと思われるのですが、浄土の教えを辛抱強く語り続けて行くより方法は無いでしょう。これが、日本に生きている、念仏申す者としての今日的使命でありましよう。

水琴窟 56

問、 往生みたびになりぬるに
答、法然上人の和讃に、
  命終その期ちかづきて 本師源空のたまわく
   往生みたびになりぬるに このたびことにとげやすし
『往生みたびになりぬるに 』と言われる意味が判らなかったのですが、往生成仏を果たし遂げる爲には、三つの難関を潜って初めて成就為るのであると言うことに気付いてみて、三度目と言う事が頷ける様に思われます。即ち、釈迦の在世中に仏弟子としての生涯を送り、日本に生まれて聖道門から、浄土門に入り、浄土往生を願って、人間に生まれた意義を完成する事が出来たと言う事です。
 第一の関門は、外道から仏道への転回です。世尊の教えを聞き得たのです。世間の教えに従っていた者が、是れを捨てて、仏の教えを聞く事が出来たのです。是れは希有最勝の出来事で有りました。
 曇鸞大師が、『仙経ながく焼き捨てて、浄土に深く帰せしめき』と言われているのは、偏に、この第一の関門の前に立たれて、是れを超えることを、『菩提流支』から厳しく迫まられた事を語っているのです。
法然上人は、父が、仇のために殺される、その臨終に当たって、『お前は、父の仇を討とうとしてはならない、恨みに対して、恨みを持って返せば、恨みは何処までも尽きることはない。父の死を縁として、仏道を求めよ』と言い残したと言われています。その遺言が、法然の出家のきっかけに成ったと言われています。法然上人の例を見るように、この第一の関門を潜る事は、時に、命がけの事でありまして、容易な事ではありません。
 私は、海軍の航空隊の訓練を受けたものでありますが、その時、第一に要求されたのが、『娑婆気を捨てよ』と言う事でありました。これは、中々大変なことで在りました。即ち、娑婆への一切の未練を捨てて、『何時死んでもよい覚悟を決めよ』と言う事でありました。 其れは一応判っていましたが、何時死んでもよいとの覚悟は、容易に決められるものではありません。何度も何度も迫られてやっとその覚悟らしいものが出来あがって行きました。 然し、本当に死ぬ覚悟は出来なかったように思います。やむなく死ぬ覚悟をしていたのであります。其れは、今、申して居る『第一の関門』を潜る様な問題であったと思います。
 この第一の関門は、仏道に入るための、最初の大事な入り口であります。『娑婆気を捨てる』という事は、権力によって無理矢理に超えるより外に方法は有りません。しかし、仏道では、教権や、権力に依らずして、自然に成就されていく、自覚であります。其れが、仏道への目覚めであります。
 若し、この第一の関門を潜る事を怠って聞法すれば、折角の聞法が、皆、『有漏の経験』に終わるのです。有漏の経験は、いくら熱心に積み重ねても、決して、『無漏の経験』にはなりません。有漏の経験に終われば、仏教の知識は増え、物知りには成れるのですが、信心には成りません。如何に多くの人がこの誤りを犯していることでしょうか。
 仏教学者が、どれだけ仏教に精通しても『信心』には成らないのです。其れを物語っているのが、渡辺照宏氏と二葉憲香氏との論争でした。(水琴窟、14、参照)
渡辺氏は、仏教学者としては、自他共に許された人であるかも知れませんが、信心は獲られていない人でありました。その結果、仏教が観念論に成って居るのです。
是れは、仏教を学ぶ者の、最も注意すべき事であります。仏教が、如何に精緻に研究されて居ても、観念論に成れば、仏教の真精神が見失われ、単なる、理論に成るのです。是れは、仏道を求める者の最も恐るべき落とし穴であります。
 法然上人は、父上の遺言に依って、この第一の関門を潜り抜けた方でありました。それは,父上の死を通して成された、悲痛な経験であります。其の故に、必死の求道が始まりました。
 然し、必死の求道のあげくにも、まだ超えなければならない関門があるのです。其れが、第二の関門であります。『聖道門を投げ棄てて、選んで、浄土門に入れ』という関門でありました。
 法然上人の『選択本願念仏集』は、正しく、この第二の関門を潜ると言う問題に答えたものであります。法然上人は、『選択本願念仏集』を著わすことに、その生涯を尽くされたので有ります。
 是れは、誰も成し得なかった、大事業でありました。この第二の関門を見出した功績は、法然に譲るべきでありますが、仏道に関わる多くの人々が、但、観念論に留まって、永く、見出し得なかった課題でありました。
 聖道門は、仏道の基本でありまして、仏道を求める者は必ず学ばねばならない『要門』であります。此の、要門こそ、仏道とはどう言う道なのかを説く教えであります。此の、要門をしっかり学んでこそ、その上に仏道の救いの道が明らかに為るのであります。
 従って、この要門を疎かにしては、仏道は、成り立ちません。浄土の教えを聞く人も、この原則を、よくよく、心得て置くべきであります。
 然し、この要門の世界に留まって、其れから先に進めない者が居るのです。自分には、聖道門の修行が出来るはずだと言う思いを捨てられないのです。その人は、聖道門で頑張れば良いのです。其れが禅宗などの修行者です。
 人間は、よくよく、自己肯定の存在でありますから止むを得ないわけです。如来は、其れを許して、修行を続けよと仰せになるのです。
 聖道門の修行では、自分は助からない存在であると気付いた者だけが、この第二の関門を潜って、浄土の教えに辿り着くのであります。
 浄土の教えは、『唯、本願を信じて念仏申せ』と言う教えであります。本願力回向によりて、阿弥陀の浄土に往生するのです。しかし、目出度く弥陀の浄土に往生しても、仮土に生まれる者が居るのです。その為に、更に、第三の関門が用意されて居るのです。
 折角、弥陀の浄土に生まれながら、仮土に生まれて、三宝の慈悲に離れて、真実報土に往生出来ないのです。それは、偏に仏智疑惑の故であります。其の爲に、第三の関門があるのであります。
 第三の関門とは、浄土門の中の、『正助二業の中、助業を傍らにして、選んで正定業を専らにすべし』という問題であります。是れは、親鸞聖人によって明確に意識せられたものでは有りますが、既に、善導大師によって語られていますので、善導・法然によって見出されて居たもので有ります。
 此の、第三の関門は、『佛智疑惑の罪』であります。仏智疑惑とは、人間の思いを優先して、仏の智慧を疑う事であります。
 私の思いを第一に考えて、何処までも、自己の思いを正当化し、仏の教えには耳を貸そうとしない、頑なな、自己肯定の我執の心で有ります。其れが、仲々見えないのです。
 この心は、私の最も深いところに巣を作っている根性でありまして、人生の終わりまで無くならない根性で有ります。
 この三つ目の関門は、仏の智慧の前に連れ出されて、教えによって叩かれて、叩かれて、如来の前に謝り入る以外には、手の施し様の無い代物で有ります。
親鸞聖人が、晩年になって、『仏智疑惑の罪』に就いて、執拗なほど繰り返し、繰り返し和讃に詠われているお意を、不審に思っていましたが、その深いお意が、やっと頷ける様に思われます。
 この第三の関門を潜ってこそ、念仏の救いは成就為るのです。ここに、初めて、人間に生まれた喜びを、全身に満喫する事が出来るのでありました。
この三つの関門を潜って初めて往生浄土が果たせるのでありました。其れを表す爲に、わざわざ、『往生三たびになりぬるに』と言う和讃が作られて居たのでありましょう。
 この様に、仏道成就の爲には、必ず、『三つの関門』を潜って、超えなければならないのです。これは、仏道の鉄則でありました。仏道を志す者が、銘記すべき事であります。
 此れは親鸞聖人に依って初めて意識されたものでありますが、仏道を成就した人々には、理解されていたものでありましょう。其れが、地下水の様に大地の底を流れ続けていて、親鸞にまで流れてきて、地上に現れたのです。親鸞聖人のお陰で、私はその事を知らせて頂きましたが、浄土の祖師達は既にその事を知って居られたのでありましょう。
 私も、此の三のつ関門を潜り抜けて、『往生三たびに成りぬるに、この度、殊に遂げやすし』と、高らかに歌いつつ、今生を『おさらば』したいものと思って居ます。

水琴窟 1

問い 仏教の教えを聞いて、そんな古い教え、いったい何かの役に立つの ?。
答え 
 仏教の教えは、釈迦から始まると言われていますが、実はもっともっと古い時代から伝えられていたものです。
 神話は、文字のない時代、長老から若者へと語り継がれてきた物語であります。仏教も神話として語り継がれてきたものが、後に文字で伝えられるようになりました。其れが『お経』であります。      
 人類は、言葉を使う事が出来るようになって、物語で色々の事を伝える事が出来るようになりました。言葉がない時代では、思うままに意志を伝える事が出来ません。言葉によって飛躍的に人類は知識を積み重ねていく事が出来るようになりました。
 神話は、人間が生きるための最も重要な知識を伝えるための格好の方式でした。それ故に、長老は厳粛に若者に神話を語って聞かせてきたのです。
人類が、他の生きものと違って今日のように素晴らしい文化を築く事が出来たのは、偏に言葉を自由に使う事が出来たからであります。その文化の基礎に宗教があるのです。
 宗教と聞けば、今の日本人は、迷信だと思って眉をひそめますが、宗教は本来人類が築いてきた叡智の集積であります。
 確かに、巷にはいかがわしい迷信が溢れています。然し正しい宗教がある事を知らねばなりません。其れは人類の叡智を集めたものです。
 何が正しい宗教か迷信かは、慎重に判断する必要があります。誰も『俺は迷信を語っている』と言う者は居ないのです。
 迷信と正しい信仰の問題は後回しにして、古い教えが今の時代に役に立つのかと言う問題から考えて参りましょう。
誰でも、昔と現代では、現代の方が優れていると考えているのでしょう。昔は科学的知識が乏しかったから、何でもないものにまで怯えていましたが、現代は何事も科学的知識によって判断されていますので、現代人の方が優れていると言います。確かに、科学的知識は発達しました。一五〇億光年先の天体まで観測する事が出来ますし、コンピユターに依って難しい計算も瞬時に可能であります。然し、人間は科学的知識だけで生きられるものでしょうか。科学が発達したために返って心配事が増えてきた一面もあります。原爆や水爆は勿論ですが、交通事故や、犯罪事件も昔より増えてきましたし、戦争の危険も昔に比べてずっと複雑になりました。果たして人類は昔に比べて進化したと言えるのでしょうか。科学の発達はかえって人類を悩ませるだけになっているようです。
 昔の方が、時間もゆったり流れていたし、人の心も温かであったと言ってみても、時間は後戻りしてくれませんから、何にもなりません。我々現代人は、これから益々世知辛い人生をあくせく生きていくより外はありますまい。
 『仏教なんか古くさいもので、現代に何も役立つものではない』などとうそぶく事が出来るのでしょうか。
 お釈迦様よりもっと昔から伝えられてきた仏教の叡智に学ぶべきものは何も無いというのは、現代人の傲慢であります。もっと謙虚に自己及び人生を考えてみる必要があります。昔の人間は、そんなに馬鹿ではありません。現代人よりもっと深く考えていたのです。まして永い叡智の蓄積には、学ぶべき多くのものがあるのです。
 特に仏教は現代人が予想も出来ないような深い叡智を伝えています。其れは『無我』の教えであります。我々は『無我』などという事はとても考えられないのです、所が仏教は『無我』の教えに尽きていると言っても良いのです。
 人間は生まれてくると間もなく自我を主張し始めます。だんだん成長してくるに従って、自我の主張は強くなり、所謂反抗期がやってきます。そんな人間に向かって、『我』というものは存在しないのだと宣言する訳ですから、こんな教えは誰も直ちに納得出来ない訳です。
 所が、仏教はこの『無我』を何処までも主張して決して譲らないのであります。現代人が仏教を敬遠して、好んで聞こうとしない理由は偏にこの『無我』の主張のゆえであります。 キリスト教やイスラム教は厳しいようですが、誰でも喜んで信者になるのは、『無我』という教えが無いからでありましょう。皆『有我』の教えであります。有我ですから、自己主張を認め、自己を正当化することを許す教えです。
 自己主張を認める限り、自己主張と自己主張とが対立して争いは絶えないのであります。家庭の問題も国家間の問題も、偏に自己主張の為の争いであります。然し相手が自己主張してくるのに、こちらが無我では忽ち相手にやられてしまって生きて行けなく成るではないかと言う反論が出てきます。
 確かにそう言う問題があるので、相手が軍備を増強すれば、こちらも軍備を増強することになり、世の中は益々ややこしくなってきました。これでは困るというので国連が出来て調停しようとするのですが、うまく行く筈もありません。これが仏教が無い世界の特色であります。
 仏教は、そう言う事を先刻承知して生み出されたものですが、我々は其れをすっかり忘れて、相も変わらず争いに明け暮れているのです。この後、仏教精神が復活するのか、この儘争いを続けて人類滅亡に至るのかは解りません。願わくは仏教復活の方向に舵を切りたいものです。
 さて無我の教えと言うことですが、小乗仏教では、無我を説くために『五蘊』と言うことを説きました。『我』があるのではない、『五蘊』があるのだと言うのです。『五蘊』とは、生きて居るものの機能で色受想行識の五つです。色は肉体、受は感受性、想は想念、行は行動、識は意識です。自己の存在の全体です。その五蘊は『仮和合』で因縁次第で消滅してしまいます。後に何も残りません。其れで無我というのです。
 然しここに問題がありました。其れは『自殺』というようなことは、何故起こるのか、人間は自己の存在を否定してまで主張しなけばならない何かを抱えているのです。其れは一体何でしょうか。
この問題を解くために、大乗仏教になると『唯識』という説が生まれました。『阿頼耶識』に一切の経験が蓄積され、その蓄積から一切の経験が生み出されてくると言うのです。この阿頼耶識は機能ですから、実体がある物質ではありません。この阿頼耶識を自我と誤認しているのです。誤認しているのは『末那識』です。此の様に従来六識だけで考えられていたものに、阿頼耶識と末那識を加えることによって、八識構造になり、無我と言うことが完全に証明されたのであります。
 末那識の誤認によって、阿頼耶識を『自の内我』となし、我痴、我見、我慢、我愛の煩悩を起こして、自己主張し争いが絶えないのです。その末那識が平等性智に転ぜられ、阿頼耶識は大円鏡智と成る時、意識は妙観察智、前五識は成所作智となって成仏道が完成されるのであります。
 然し、転識得智と簡単に言っても、そう簡単に転識得智が成就するものではありません。凡夫が仏に成るのには、三大阿僧劫と言う永い時間がかかると言われ、四十二段の階段を昇って、やっと仏に到達すると言われています。そんな縁遠い話をしては、凡夫にはとても手の届かない夢のような話に感じられます。そこで、仏道成就の可能性があるものは、いかなる困難にもめげず修行成就しうる丈夫志幹に限られることに成りました。  
 ここに聖道門仏教の泣き所があります。然し、凡夫の救済が説かれるようになるのはずっと後の時代でありまして。仏道とは此の様な厳しい修行に耐えて成就するものとされていました。
 ともかく、転識得智が成就して、平等性智が成就することによって無我の自覚が完成し、自己主張に依る争いが収束するのです。この為に仏教はひたすら無我を説くのです。
 然し、転識得智が容易には成就しないとなれば、所詮仏教は絵に描いた餅で、実効のないものに成ります。ここに先人達の悪戦苦闘がありました。  
 釈尊以来2000年の時を懸けて悪戦苦闘が続けられ、法然親鸞の二聖によって、阿弥陀仏の本願による救いが提唱されて、二千年に及ぶ難問が解決されたのであります。
 然し、この二聖に依る浄土真宗の教えが万人に認められるにはもう少し時間が懸かります。先ず、浄土真宗の教えが外国語で理解されるようになる必要があります。日本語で語られている限り世界の人に理解されることは難しいからです。その為には、多くの人々の御苦労が必要であろうと思います。これからの方々の御苦労をお願いするしかありません。どうかそのような苦労が実を結んで、浄土真宗が世界の人々に理解される時代が来ることを願ってやみません。

水琴窟 20

水琴窟 二十
問、仏像を拝む意味 Ⅱ
答、善導は観経疏に『応心即現』と言いました。『心』とは人間の心の底に隠れている。『真実に遇いたい』と言う『人間至奥の要求』であると云いました。如来は此の『心』に応えて『東域に影臨す』と言われます。
『そんな心など私には有りません』といくら主張しても駄目なのです。如来は先刻見抜いて居られるのです。
『貴方のも必ずこの心は有るのですよ』と、言い切られるのです。そうして、『確かに私にも、この心が有りました』と気づいた時、即座に『摂取不捨』の利益に預かるのであります。
『私にも、この心が有りました』と頷くことは容易ではありません。しかし、聞法を続けるならば、必ず頷けるのです。それは既に先輩たちによって証明されているからです。 『弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈虚言したもうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞がもうす旨またもって虚しかるべからず候か。詮ずる所、愚身が信心におきては此くの如し。この上は、念仏をとりて信じたてまつらんとも、また捨てんとも面々の御計らいなり。』これ程の証明を並べられて、それでも疑うと言うのは、よくよく疑い深いと言わねばなりません。
さて、『仏像を拝む意味』と云う事ですが。阿弥陀仏は、我々の目で見る事は出来ません。それで、『影臨』と言いました。『影』と成って臨むのです。臨むとは、顕われること、働きかけて来ると云う事です。『影』と云う言葉は、日本語では随分ニュアンスの豊富な言葉です。『月影』は月が照らして居る様ですが、『島影』と言い、面影を偲ぶと 言います。遂に、『お蔭さま』と成れば、愈々意味深重 であります。
阿弥陀如来が『影臨』すると云う事も、『お蔭様』と言うより外ないのでありましょうか。阿弥陀仏は確かに、我々の為に、やって来て働きかけて居て下さるのです。問題は、それを我々衆生が、我が身の上に頷けるか否かと言う事であります。
『阿弥陀仏、此処に在します』と頷く事が出来るか否かと、自己に問うてみるのです。『確かに阿弥陀仏在します』と頷く事が出来れば、もう占めたものです。頷けるまで聞き抜くことです。頷けたらそれでお終いかと言うと、一度、頷いたら、もう逃げられないのです。其の儘人生が終わるまで、聞法を続けなくてはならなくなるのです。
それは如来が離して下さらないのです。いくら私は逃げようとしても、如来が離して下さらないのです。自然法爾なのです。私の努力ではありません。
西遊記の物語にあるように、孫悟空が幾ら逃げようとしても、仏陀の掌の中をぐるぐる回っていたよなものです。孫悟空の神通力と雖も所詮人間の計らいでありますから、仏法力の前には、手も足も出ないのです。
一度、仏法力の前に引き出されたら、人間の計らいは全てお手上げになります。阿弥陀仏在しますと頷けないのは、人間の計らいであります。その計らいの儘が、仏の掌の中なのです。そのことに目覚めて、南無阿弥陀仏と念仏に帰る時、『阿弥陀仏在します』と、頭を下げ、手を着くのです。 仏像を拝む意味は、仏像は仮の形です、その仏像を通して、眞の佛を礼拝するのです。私達は何か対象が無ければ、礼拝する事が出来ません。其の為の仏像です。仏像こそ、真の佛の心を念ずるための形であります。
仏像は、礼拝の為の形であります。礼拝すると云う事実を抜きにして仏像を見るだけなら、仏像はせいぜい美術品か人形にすぎません。従って、其れだけの値打ちしか無いものに成ります。仏像は、あくまでも礼拝の対象であることを忘れてはなりません。
仏像を拝む事は、仏法の大事な儀式でありますが、今日、その儀式の意義が忘れられて、美術品に成って居る事は残念な事であります。その理由は、偏に、仏教自体が堕落している訳です。仏教が、宗教としての意義を失って、堕落しているのです。宗教の堕落には、二つの問題があります。一つは、宗教の観念化であり、今一つは、宗教の偶像化であります。まず、宗教の観念化に就いて考えて見たいと思います。
観念化と言えば、言葉が解かり難いのですが、要するに、話に終わっていると云う事です。話はいくら聞いても話に過ぎません。救いの事実にはならないのです。
彼女の聞法、三十年
しかし彼女には、何物もない
聞くだけが賢いのなら
浪花節道楽の男が、一生を寄席に通うて何ほど賢くなったか
一生を聞法に使うて 然も、何物もない
何処に、欠陥があったのか
彼女は、ただ我を忘れて、話を聞いたのだ
我を知らずして、話を聞けば、話しは話に終わる
話を聞く者は多く、道を求める者は少ない
道を求めて三十年を費やすか
話を聞いて三十年を送るか
往生極楽の話は甘く
往生極楽の道は、易くして辛し (讃嘆の詩、上巻、p131)
自己を見つめる事を忘れて、法を聞けば、仏法が話に終わるのです。自己を見つめるとは、機の深信です。機の深信を抜きにして、仏法を語れば、仏法の話になるのです。
これは、仏法を語る側に責任がありました。仏法によって救いを成就しようとせず、御法礼を稼ぐ事だけを念頭にして、仏法を説くことを忘れた結果であります。ただ、面白おかしい話をして、大衆の歓心を買っていたからです。
仏法の話は甘いので、聞く方もそれを喜び、説く方もそれに依ってお金が貰えるのですから、安易にその方に流れるのです。そのような堕落が続けられて、今日に至りました。 『お前は如何であったか』と問われると、私も、その一人であったことを深くお詫びしなければなりません。
宗教が観念化して、宗教の生命が失われる時、世の中には、迷信ばかりがはびこるのです。現代は正にそのような時代であります。正しい宗教心が見失われて仕舞っています。誠に、浄土真宗の寺院が、真っ先に、目を覚まさなければならない時代であります。
門徒制度に溺れて、寺に住めば、易々と飯が食えることになり、聞法に命を懸ける事を忘れています。是が、観念化の状態を創り出した元凶であります。
住岡夜晃先生は、貧苦の中で、只管に自己を問い続け、『大法の如く』と叫び続けて下さいました。今こそ、夜晃先生の光明団創設の御精神に立ち戻って、『大法の如く、更に大法の如く』歩み切らせて頂かなければならない時であります。
もう一つ、宗教堕落の姿が『偶像崇拝』でありますが、長くなりますので次回に譲りたいと思います。

水琴窟 21

水琴窟 二十一
問、偶像崇拝とは (前号より続く)
答、宗教堕落の姿に偶像崇拝の問題があります。偶像崇拝と言う言葉には、誤解を生む欠点がありますが、此の言葉が定着して長い年月が経ちますので、今、別の言葉を見出すことが困難になりました。其の為にこのまま使用する事にします。
そもそも『偶像崇拝』と言う言葉は、今から3000年以上も昔に、モーセと言う人に遡るのです。モーセは、紀元前16世紀とも13世紀ともいわれる預言者で、旧約聖書の出エジプト記の『モーセの十誡』に出て来る言葉であります。
モーセの十誡の二番目に『偶像を造ってはならない』と禁止してあります。但し、カトリック教会とルーテル教会の伝統にはこの項目がありません。しかし、キリスト教でもイスラム教でも、共通して、偶像崇拝を厳しく戒めているのです。
しかし、宗教には必ず礼拝と云う事が伴いますので、キリスト教では『十字架』を、イスラム教では『メッカの方角』を拝む事になっています。
所で、『偶像崇拝』と云う事の本当の意味は如何いう事でしょうか。仏教の立場から言えば、少なくとも、仏像を拝む事ではありません。人間は何かを対象として、礼拝をするのですが、宗教には、必ず礼拝と云う事が伴います。礼拝をしない宗教はありません。
但し、何を求めて礼拝するかが問題であります。若し間違ったことを求めて礼拝する限り、如何に真剣に祈っても、迷妄に堕するのです。それを迷信と言います。
人間の要求は全て『自我』に裏らずけられています。『自我』を孕んで居る限り、迷妄の謗りを免れる事が出来無いのであります。
仏法は『無我』の教えであります。従って、『自我』を否定すのでありますが、西洋には、『無我』と言う教えがありませんから、これを説明することが困難であります。
しかし、『無我』と云う事が説かれない限り、自己主張が止まず、自己主張と自己主張がぶっつかって、戦争は止められません、その結果は、人類滅亡と云う事になりましょう。 今こそ、『無我の教え』を、世界中の人に理解してもらわねば、核戦争が起こって、取り返しのつかないことに成るのではないでしょうか。
仏教の無我の教えに立つ限り、偶像崇拝とは、人間の要求を神に祈ることです。仏教では、『現世を祈る行者』と申します。人間の要求は、如何に純粋の様でも、必ず、自我が混入していますから、自己肯定と自己主張を、続けるばかりです。
たとい、世界の平和を祈ると言いましても、自分の立場を考え、自己を正当化するのです。自己を犠牲にすると云いましても、自己を犠牲にしたと云う痛みを離れる事は出来ないのです。自己犠牲と言う痛みがある限り、流転輪廻の延長に成るのです。
自己犠牲は素晴らしい美徳だと云うのは、痛くも痒くもない傍観者の云う事で、当の本人が言える言葉ではありません。従って、仏教には自己犠牲と言う言葉は無いのです。
人間の祈りは、全て偶像崇拝であります。『如来の願』のみが『真実の祈り』です。衆生は、『人間の祈り』を捨てて、ただ『如来の祈り』に信順する必要があります。
『今生に如何に、いとおし、不憫と思うとも、存知の如く助け難ければ、この慈悲始終なし』(23の3、歎異抄第4章)と言わざるを得ないのです。
西洋では、この様な思想が、一部の人にしか知られて居ない為、『偶像崇拝』の意味が誤解された儘に成って居ます。日本でも、西洋思想の影響で、同じ誤解が定着して来ました。仏教精神の復活が急がれる次第であります。
歎異抄に『慈悲に聖道浄土の変わり目あり』と言われています。『聖道の慈悲は、存知の如く助け難し』と言われる所以が、この問題であります。
勿論、『聖道の慈悲は助け難し』と言いましても、何もしないで良いのではありません。聖道の慈悲を励むのです。慈悲心と言うのは、相手を哀れみ悲しみ育むことです。此の慈悲始終なしと知って、精一杯、慈悲をかけるのです。ただし『此の慈悲始終なし』と知ったうえで、聖道の慈悲に、精一杯尽くして念仏申すのです。念仏申せば『始終なし』に悔いはありません。それが念仏者の生き方です。
念仏者は、『自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より以来、常に没し、常に流転して、出離の縁有ること無しと深信する』身であることを知って居ますから、人間の慈悲心の限界を熟知しているのであります。其の上で、精一杯の慈悲を注ぐのであります。
慈悲の心が、相手に届く時もあり、届かない時もあります。是は御因縁であります。因縁次第では、届かないこともあるのです。それでも、在りの儘を見つめて念仏申すより仕方がありません。これがこの世の実相であります。
『私は是だけやっているのに、それが解からぬとは、お前が悪いのだ』と腹を立てるのは、この世の実相が分かって居ないのです。念仏の心に帰って、この世の実相に疎い自らを反省すべきであります。
私達は、またしても、自分の思い通りにしたいと思います。しかし、この世は私の思い通りには成ら無い所です。全て因縁次第であります。この世の事は、因縁に任せて、念仏しながら、大法の如く、更に大法の如く、歩ませて頂くのです。
お浄土には、『一切所求満足功徳』が成就されていると言われます。それを曇鸞大師は、『所求に叶て、情願を満足す』と解釈されました。『所求』とは、私達の欲望であります。お浄土は我々の欲望が、悉く満足すると言うのです。
『所求に叶う』とは、我々の欲望を、いきなり否定するのでなく、欲望を静かに聞きながら、その底にある情願を満足させるのです。『情願』とは、私達に必ず賜っている『真実に遇いたい』と言う、止むに止まれぬ願であります。この情願が満足する時、不思議にも、私達の欲望は全て満足して『南無阿弥陀仏』に成るのです。
確かに、我々の心の深いところに『真実に遇いたい』と言う願がありました。『私にはそんなものはありません』と言いたいのですけれど、それは『所知障』と言うものの言い分でありまして、その底にちゃんと情願と言われるものが有るのです。
この頃は、学校教育が進んで、一文不知の人は居ません、その代わり、所知障が発達して誰も仏法を聞こうとしないのです。所知障は、誰も皆、賢く、物知りに成って、其の為に、仏法を邪魔して聞かせなくして居る働きです。一文不知の人は、仏法を善く聞きました。学歴の高い人ほど仏法を聞かなくなりました。学問をした人こそ、仏法を聞いてくれなければならないのです。教育の在り方を一考すべき時です。此の為には、幼児の時の教育が大切であります。念仏の家庭で特に注意すべき問題です。
『私にも、情願が確かに有りました』と我が身に確認出来た時、私の心は晴れて、『心得開明』と成ります。身も心も晴れて清々しくなり、思う存分『世の中安穏なれ。仏法広まれ』と飛び回ることが出来るのであります。
本当の偶像崇拝とは、人間が勝手に描いた願望を、神に祈ってそれを叶えて貰おうとする『信仰』であります。人間が勝手に描いた欲望でありますから、そんな信仰は、正しい信仰とは言えません。願望が叶えられる事もあり、叶えられない事もあるのです。そうすると、叶えられないと、神も仏もあるものかと、神様を恨むのです。だから、偶像崇拝が正しい信仰ではないと、否定されるのは当然であります。
ただ、偶像の意味が正しく理解されていないと、単なる、器物破壊に成ってしまいます。イスラムの過激派教徒が行っている仏像破壊は、単なる、器物破壊に過ぎません。これは、自分達の宗教だけが正しいと主張する、独善的な勝手な暴力であります。
こんな独善的な暴力がまかり通る世界は、社会を混乱させるだけです。是非止めさせる必要があります。人類の叡智に依る良識によって、厳しく忠告すべきであります。
それが出来ないなら、人類は混乱の末、戦争によって破滅を迎える事になりましょう。人類が此の儘破滅に向かって走り続けるか、平和に生き続けられるか、二者択一の岐路に立っていると云わねばなりません。人類の叡智が正に試される秋であります。
偶像崇拝は、迷信であります。今日、信仰の名によって迷信が巷に溢れています。これは、学校教育が進んで、理性のみが発達して、所謂『所知障』と言う『分別』ばかりが蔓延して来たからであります。『分別』は、『所知障』と言いまして、『所知』(人間として、必ず知るべきもの)を障えて、知らせない様にする働きであります。
世間は分別によって成り立っていますから、学校教育が分別を大切に身に付けるように教えるのですが、この分別の為に、仏教の教えが解からなくなるのです。まことに厄介な事ですが、致し方もありません。そこで、仏教の方も頑張って仏教の教育をしなければなりません。今はこんなややこしい時代であります。
いくら教育が進んでも、大丈夫、仏教は伝わって行くものですから、安心して、仏教教育を進めて行けばよいのです。ただ今日は、仏教が解かり難い時代であることは、心得ておく必要があるのです。
二回に渡って『宗教の堕落』を見て来ました。宗教は、いとも簡単に堕落するものです。宗教では無くて、人間が堕落するのですが、人間が正しい信仰に到達することが困難なのです。人間には、煩悩障と所知障がありまして、煩悩障も大変ですが、現代では所知障を克服することが、中々困難な時代であります。
此の二つの障害を越えて、正しい信仰を得る事は、人生の最大の課題であります。それ故に、正しい信仰に遇い得た者は、人生の成功者であります。
以上、宗教の堕落の二つの形を述べました。宗教の観念化と偶像化であります。何れも今日の重要な課題であります。この二つを正しく克服して、信仰の正常を保たねばなりません。 信仰が正常に保たれてこそ、その社会は正常に発展するのです。今の世の中は、どう見ても正常な発展とは言えない状況であります。全てのものが、いびつになり、歪んでいます。『世の中安穏なれ、仏法広まれまれかし』と願わずには居られません。